saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」第1章   大いなる道 (15)

Pp41ー45

 

 第1章   大いなる道 (15)

 

 

『だから、真実を見たいと願うなら、

   いいとか、駄目だとかの意見を持たぬことだ。

   好きと嫌いの葛藤、

   これが 心の病いだ』

 

 

 賛成と反対、何が好きで、 何が嫌い。

これこそが 心(マインド)の病いだ。

 

なぜ人間(マインド)は 分割されるのだろうか。

どうして 一体(ひとつ)では いられないのか。

あなたたちは そうでありたい と望む、一体でありたいと願う。

だが あなたたちは、その分割に、選り好みに、好き嫌いに、水を やり続ける。

 

 つい先日も、ある女性が来て

「祝福してください。 あなたの祝福が いただきたいのです」と 言った。

が、私には、彼女が不安そうで、心配しているのが 分かったので、「どうしたのかね」と 尋ねた。

すると その女性は

「実は、私は 既に他の方の 得度を受けているものですから」と言う。

 

 葛藤が あるのだ・・・本人は 私の祝福を望んでいる。

だが 頭(マインド)は、この人は 自分の師ではない、 と言っていたのだ。

自分には 別に 師がいる、どうすれば いいか、というわけだ。

私は 彼女に、両方とも捨てなさい、と 言った。

 

もし私が「前の導師は捨てて、私を選びなさい」と 言えば、その方が楽だった かもしれない。

その方が 楽だっただろう。

それなら、思考(マインド)が 機能し続けることができるからだ。

だが、問題は同じままだったろう。

病いの名前は変わったかもしれないが、病いそのものは 同じだっただろう。

またどこかで、同じ疑いが、同じ動揺が 持ち上がったに違いない。

 

 だが私は

「両方とも捨てなさい」と 言う。

なぜなら、師に到達できる唯一の道は、自分の側に どんな選り好みも、この道かあの道かの選択もない ということだからだ。

あなたは ただ来る・・・空っぽで。 あなたは ただ来る・・・どんな意見も持たずに。

あなたは ただ来る・・・空っぽの受容器と なって。

その時初めて、人は 師のもとに来ることができる。

他に道はない。

そしてもし その師が 真理への扉になるようなら、それは そうなる。

なぜなら、それこそが準備、それこそが 得度だからだ。

 

 師は あなたが意見なしに、無心になるのを 助けるためにいる。

もし、師自身が あなたの選択になったら、彼が 障害物になってしまう。

それでは、あなたは またもや選択したことになる、またもや頭(マインド)が 使われてしまった。

頭(マインド)は 使えば使うほど、強化され、強くなる。

それを 使ってはいけない。

 

 難しい。 なぜなら、あなたたちは「私たちの信仰は どうなるのか。宗教は、 教会は、 寺院は どうなるのか」と 言うからだ。

それが あなたたちの 重荷だ。

それから自由になりなさい、それを自由にしてあげなさい。

それがあなたを この世にひきとめているもの、根づかせているものだ。

 

ところが  真理は あなたが解放されていること を 求める。

解放されたあなた が 到達する、翼を持ったあなたが 到達する、重さのないあなたが 到達するのだ。

 

 僧璨(そうさん)は 言う。

『好きと嫌いの葛藤、

   これが心の病いだ』。

 

 どうやって これに打ち勝ったらいいのか。

これに打ち勝つ方法が 何かあるのか。

いや、方法は ない。

 

人は ただそれを 理解しなければならないだけだ。

ただそれが「事実であること」を 見抜かなければならないのだ。

ただ 目を閉じ、自分の〈生〉を 見なければならない。

それを 見守れば、僧璨の真理を 感じるはずだ。

そして、その真理を 感じた時、病いは 落ちる。

それには どんな薬も ない。

なぜなら、もし薬が 与えられたら、人は その薬に 執着し始めるからだ。

そうすれば、病いは 忘れられ、逆に その薬が 好まれるようになる。

そうなれば、瞑想は ひとつの病いになる。

 

 そうではない……。

僧璨は あなたたちに どんな薬も、どんな方法も 与えるつもりはない。

僧璨は あなたたちに どうしろと勧めるつもりはない。

彼は ただ、繰り返し 繰り返し 繰り返し、千と一度も、人が どうやって自分のまわりに この窮状を すべて創り出したのか、どうやって この惨めさの中に身を おいているのかを、自分で 理解するしかないことを主張しようとするだけだ。

 

他の誰が それを創り出したのでもない。

それは 選り好みをする という、あなたの 心(マインド)の 病いなのだ。

 

 選んではいけない。

〈生〉を あるがままに、その全体性において 受け容れなさい。

全体を 見なければならない。

 

生と死を 一緒に、愛と憎しみを 一緒に、幸福と不幸を、苦悶と歓喜を 一緒に見なければならないのだ。

その 二つを 一緒に生きるなら、どこに選択があろう。

それが ひとつのものだと 分かったら、どこから選択が入って来られよう。

もし、苦悶は 歓喜に他ならず、歓喜は苦悶に 他ならない と 分かったら、幸福が不幸に他ならないことを 見ることができたら、愛が憎しみで、 憎しみが愛だと わかったら・・・そうなったら、どこに選択が あるのか、どうやって選ぶことができるのか。

その時、選択が 落ちる。

 

 自分が それを 落としているのではない。

自分が 落としたのなら、それは 自分の選択になってしまう。

これこそが 逆説だ。

それを落とすことになっているのは あなたではない。

なぜなら、もしあなたが 落としたら、あなたが善し悪しを 選んだことになるからだ。

今度の あなたの選択は、全体性だ。

あなたは 全体性に賛成で、分割に反対だ。

だが、病気は 入って来ている。

微妙なところだが……。

 

ただ 理解しなさい。

そうすれば、まさに その理解そのものが 脱落になる。

けっして自分が 落とすのではない。

 

あなたは ただ笑って、一杯のお茶を 求めるだけだ。

 

 

「第一章  大いなる道」おわり

 

著者   ラジニーシ

訳者   スワミ・パリトーショ

発行   禅文化研究所