saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」第二章  道は完全だ (09)

Pp66ー72

 

 第二章  道は完全だ (09)

(…一度 理解したら、全世界を変えようとすることなど、あなたの 役割ではない。

あなたにできるのは、唯一 自分自身を変えることだけだ )

 

 スーフィーの神秘家、バヤジットは自伝に書いている。

「若かった時、私は考え、そして神に願った。

その私の祈り全体の基調は、『全世界を変えることができるように、私に力を与えたまえ』というものだった。

誰もが私には間違って見えた。

私は、革命家だった。

地球の様相を一変しようと望んだ」

 

「もう少し成熟した時、私は 次のように祈り始めた。『少し欲ばり過ぎたようです。

人生は私の手から こぼれて行きます。

ほとんど人生の半分が過ぎてしまったのに、私は たった一人の人間も変えられませんでした。 全世界というのは大きすぎます』。

そして神に こう言った『家族だけで結構です。 私に家族を変えさせてください』」

「そして老年に至って」と バヤジットは言う。

「その家族さえも 多すぎるということが分かった。

それに 彼らを 変えようという自分は いったい何者なのか。

その時 私は理解した。

自分自身を変えることができれば それで十分だ。 いや十分以上だと。

私は 神に祈った。

『今度こそ、やっと正しい地点に来ました。 私がこれをすることだけは お許しください。

私は 自分自身を変えたいと思います』」。

「神は応えた。『今では もはや時間はない。 おまえは、初めに このことを求めるべきだった。 その時なら、 可能であったかもしれないものを』」。

 

 誰もが、これを最後に求める。

これを 最初に求める者、その人は ことの本質を理解したのだ。

その人は、自分一人を変えるだけでも 容易なことではないのを知っている。

自分が全世界だ。

自分がその中に 全世界を運んでいる。

存在するものすべては、自分の 中に 存在している。

自分が 全宇宙だ。

決して 小さなことではない。

もしこの変化が起こり得たら あなたは達成した。

そうでない限りは・・・、

『物事の深い意味が分からぬうちは、

   心の平安はいたずらに乱される。

   道は大いなる虚空のように完全だ。

   足りないものも、余計なものもない。

   しかり、いいとかいけないとか選り好みをするばかりに、

   本当の姿が見えないだけだ。』

 

「道は、大いなる虚空のように完全だ。 足りないものも、余計なものもない」。

あらゆるものは あるべきようにある。

ただ自分が その中に落ち着かなければならないだけなのだ。

ただあなただけが 落ち着いていない。

すべては あるべき姿にある。

何ひとつ 欠けてもいなければ、余計なものもない。

 

 これより よい世界を 考えられるだろうか。

賢ければ、考えられない。

愚かなら、考えられる。

現在ある この世界以上によいものなど あり得ない。

唯一の問題は、あなたがその中に 落ち着いていない ということだ。

 

 その中に落ち着きなさい。

そうすれば〈道〉は大いなる虚空のように完全だ。

何ひとつ 欠けたものもなければ、何ひとつ 余計なものもない。

すべて バランスがとれている。

あなただけが 唯一の問題だ、世界の方に問題は 何もない。

 

 これが政治的な頭(マインド)と 宗教的な頭(マインド)の 違いだ。

 

そして あなた方は みんな政治的な頭(マインド)の持ち主だ。

政治的な頭(マインド)は 考える。

「私は絶対に正しい。他は みんな間違っている」と。

そこで彼は 世界を変え始める。

レーニンガンジーヒットラー毛沢東

政治的な人間(マインド)は 

「何もかも間違っている。

もし すべてが落ち着いたら、素晴らしくなるのに」と 考える。

 

 宗教的な人間(マインド)も考える。

「私が落ち着いていないだけだ。

さもなければ、何もかも 申し分なく完全なのに」と。

 

〈道〉は 大いなる虚空のように完全だ。

何ひとつ欠けてもいなければ、何ひとつ余計なものもない。

すべてが あるべき姿だ。

完全にバランスがとれている。

ただ 一人、あなただけが 浮き足立っている。

ただ 一人あなただけが どこへ行くかを 知らない。

あなただけが 分割されている。

ちょっと考えてみなさい、もし、人間が この地上から消えたら 世界はこの上もなく完全で、この上もなく素晴らしくなるだろう。

どんな問題も 存在しないだろう。

 

 問題は 人間とともに来るのだ。

それは、人間が 意識を持っているために、そのものの見方が 間違うことがあり得るからだ。

その意識が 面倒を起こす。

意識で あるがゆえに、人は物事を 分割することができるからだ。

意識で あり得るがゆえに、「これは正しい、 あれは間違っている」と 言うことができるからだ。

意識で あり得るがゆえに、「これは醜い、あれは美しい」と 言うことができるからだ。

 

 その意識では 十分ではない。

それが もっと意識的になって、ひとつの円環になったら、完全な意識になったら、その時、再び すべてが落ち着く。

 

 ニーチェは……彼には解明すべき洞察がたくさんある……人間は 橋だ、 存在ではない、と言ったことがある。

 人は橋だ、 超えて行くべきものだ。

橋の上に家を建てることはできない。

これがイエスの言っていることだ。

「それを通り抜けなさい。

その上に家を建ててはいけない。 それは 橋に過ぎない」と。

 

 ニーチェの文章は、「人間は 自然という永遠と神という永遠の 二つの永遠の間に架かっている橋に過ぎない」というものだ。

自然の中では すべて申し分ない。

神の中でも すべては申し分ない。

人間は 橋だ。

人間は まさにその中間にいる、半分は自然で、半分は神だ。

それが 問題だ。

 

人間は 分裂している。

 

 過去は 自然に 属し、未来は 神に属している。

人間は 二つの永遠の間に張った綱のように 張り詰めている。

時には自然に向かい、時には神に向かって動く。

ある時は こちら、ある時は あちらと、絶えず震え、動揺し、落ち着かない。

落ち着きなさい、そうすれば どちらの道でも いいのだ。

 

 荘子は、自然に還って 落ち着くことを支持する。

自然の懐(ふところ)に 落ち着いたら、人は 神々のようになる。

あなたは、神々になる。

 仏陀は、前進して神になる道を支持する。

そうやっても 人は落ち着く。

後ろに 戻るか、最後の果てまで つき進むかだ。

ただ、橋の上に 止まってはいけない。

 

 これこそが 理解されねばならぬこと、最も大切な 根本的なことのひとつだ。

つまり 後ろに戻っても、前に進んでも、人は 同じ終着地に達する ということだ。

戻るか 進むか ではない。

問題は 橋の上にいない ということなのだ。

 

 老子荘子は、自然に還れ、道(タオ)に帰せ、 と言う。

 シャンカーラや 仏陀やイエスは、前進せよ、橋を 通り過ぎよ、〈神性なるもの〉に至れ と 言う。

これは ひどく矛盾して見えるかもしれないが、そうではない。

なぜなら、両岸は 同じものだからだ。

つまり、この橋は輪になっているからだ。

 

 後ろに戻ろうと、前に進もうと、どちらの道を選んでも 同じ終着地に達する。

同じ寛(くつろ)ぎの地点に到達する。

もしあなたが、自分には 手放しは不可能だ という気がするなら、パタンジャリの道、努力の道、意志の、奮闘の、探索の道に 従うがいい。

そうすれば、あなたは 前に進むことになる。

 

 もしあなたが、逆効果の法則を理解できるような気がするなら、理解できるだけではなく、自分の中に 起こらせることができるような気がするなら、僧璨(そうさん)や荘子に……後戻りの道に従うがいい。

だが、今いる所に止まっていてはならない。

橋の上では 二つに引き裂かれてしまうからだ。

そこで寛ぐことはできない、そこに 家を作ることはできない。

橋は 家を建てる場所ではない。

それは 終着地ではない、通り過ぎるべきものにすぎない。

 

 ニーチェは 言う。

「人間は超えられるべきものだ。

人間は、存在ではない。

動物には存在がある。神には存在がある。

だが、人間は まだ存在になっていない。

人間は ひとつの移行、過渡期だ。

ひとつの完全から別の完全への移行。

人は 中間で引き裂かれている」と。

 

 僧璨(そうさん)は、戻れ と 言う。

そして もし、あなたたちが尋ねるなら、私は僧璨の方が パタンジャリより易しい と 言おう。

結局は、同じことが起こる。

たくさんの努力が、あなたを無努力に連れて行くことになる。何も 努力もしなくても、やはり あなたは 無努力になる。

なぜなら、努力は 決して目的地にはなり得ないからだ。

努力は 手段でしかあり得ない。

人は、どこまでも永遠に努力し続けることはできない。

人は 無努力の状態に至るために 努力するのだ。

 

 パタンジャリにあっては 努力は通り路、無努力が終点だ。

努力は手段、無努力が目的だ。

 

僧璨の道では、無努力が手段で、無努力が終点だ。

僧璨では、最初の 一歩は 最後の 一歩だ。

僧璨にあっては、手段と目標の 区別はない。

だが、パタンジャリには 区別がある。

人は たくさんの段階を 通り過ぎなければならない。

 

 だから、パタンジャリの道では、光明は 段階的に起こる。

僧璨の道では、光明は 一瞬のうちに、まさに 今のこの瞬間にも、起こり得る。

それは 突然のものであり得る。

もし あなたが僧璨を理解できるなら、それ以上に素晴らしいものはない。

だが、理解できなければ、その時は パタンジャリが唯一の道だ。

 

 

 第二章  道は完全だ (10)へ 続く・・・