saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」第二章  道は完全だ (08)

Pp61ー66

 

 第二章  道は完全だ (08)

( …誰か 苦しんでいる時には、それは 必ずその人が 事態を、物事のより深い意味を 理解していない ということだ。

だが 人は、自分の苦しみを 他人(ひと)のせいにして 他人を責め続ける )

 

 この世には、他人のために苦しんでいる者など 一人もいない。

あなたが苦しんでいるのは、あなたの無理解の、あるいは 誤解のせいだ。

 

 例えば、私の所に来た ある人、夫であり、五人の子供の父親は こう言う。

「私は ほとほとまいっています。

妻は 私を支配しようとして、口応えをしますし、子供たちは 私の言うことなど聴きません。

母親の影響力が あまり強くて、子供たちは妻の言うことは聴いても、私の言うことなど聴こうともしないのです。 私のことなど問題にもしません。

とてもやりきれない気持ちです。

何とかしてください。 あなたの お慈悲で妻を もう少し、物の分かるようにしてやってください」

私は 言った。

「それは 不可能だ。 私の慈悲だろうと、誰の慈悲だろうと、第三者をもっと物分りよくすることなどできない。

まだあなたなら そうできる可能性もあるがね。

それに、相手に理解を求めた時、あなたは すべての要点を逃している。

奥さんが 支配的に見えるのは どうしてだろう。

奥さんが 支配的に見えるのは、あなたも、 その支配をめぐって争っているからだ。

もしあなたが 支配争いを していなかったら、奥さんが支配的に見えることはないはずだ。

それは、 あなた方 二人が、同じ目的地をめざしているためにある戦いだ。

それに、子供たちが母親に従って 何がいけないのかね。

しかし あなたは、子供に 自分の言うことを聴いてほしい。 だから、そういう争いがあるのだ」

 

 理解しようとしてごらん。

誰もが 支配しようとしている。

それこそが 自我(エゴ)の本質だ。

相手を支配するために あらゆる努力をする。

相手が 夫であろうと、妻であろうと、子供であろうと、友だちであろうと、何も違いはない。

支配するために、支配のための 方法と手段を見つけるために あらゆる努力をするのだ。

 

 誰もが支配しようとしているのに、あなたも 支配しようとすれば、そこには 争いが起ることになる。

争いは、他の者が支配しようとしているから あるのではない。

その争いは、あなたが、自我(エゴ)の働き方を理解しようとしないためにあるのだ。

 

 あなたが そこから 降りなさい。

他人を 変えることはできない。

それに、他人を 変えようとしたら、無用に 一生を浪費することになる。

それは その人たちの問題だ。

理解していなければ、苦しむのは その人たちだ。

なぜ あなたが苦しまなければならないのか。

あなたは ただ、 誰もが 支配しようとしていることを 理解すればいいだけだ。

「私は ここから降りる。 もう支配するつもりはない」と。

あなたの 闘いは消え、ある 実に美しいことが起こる。

 

 こちらが 支配しようとしなければ、奥さんは馬鹿みたいに感じ始める。

やがて自分が 馬鹿に見えてくる。

何しろ 戦うにも相手がいないのだから。

戦えば、あなたは 相手のエゴを 強めている。

これは 悪循環だ。

 

 こちらが 相手にならなければ、向こうは独りで戦っているような 気がしてくる。

真空の中で、風を相手に、あるいは 幽霊を相手に戦っているような感じになる、人を相手に 戦っている気がしない。

そうすれば、あなたは、相手にも事態を見究め、理解するための 機会を与えたことになる。

そうなれば、奥さんは あなたのせいにはできない。

奥さんは 自分で自分の責任を 取らざるを得ない。

 

 誰にとっても 問題は 同じだ。

人間の本性は 大なり小なり同じように機能するからだ。

違いは 程度の問題に過ぎない。

理解しようとすれば、人は 一人のドロップ・アウトになる。

社会から降りる というのではない。

ヒッピーになって コミューンを作る というのではない。

そんなことが要点ではない。

 

 心理的に、もう そういうエゴ・トリップには入らなくなるのだ。

支配や 攻撃や 暴力や怒りには入らなくなる。

もう その一部ではなくなる。

すると、ある距離、ある分離が生じる。

今度は自分で、 事態を見られるようになる。

そして 人がいかに愚かであるかを 笑えるようになる。

自分が、いつも、どんなに馬鹿げていたかを 笑うことができるのだ。

 

 臨済(りんざい)について こんな話がある。

 彼は 朝起きると、いつも 腹をかかえて 大笑いした。

その声は あまりにも大きく、全叢林の五百人の僧侶に聞こえるほどだった。

夜 寝る時、彼は もう一度 高らかに笑った。

 

 何人も その理由を訊く者があったが、臨済は ただ笑うだけで 答えようとはしなかった。

 臨済が入寂しようという時、誰かが尋ねた。

「一つだけ お訊きしたいことがあります。

これまで、 毎日、朝 起きた時と、 夜と、なぜお笑いになったのでしょうか。

一人も そのわけを知る者がおりませんし、私たちが訊いた時には いつもまた笑われるばかりでした。

どうしても不思議で仕方がありません。

肉体を去られる前に、どうか理由をお明かしください」

 臨済は こう言った。

「わしが笑ったのは この世が あまりにも馬鹿げているからだ。

朝起きて 笑ったのは、さて、また まわり中 馬鹿者だけの世界に入って行くか、と思ったからだ。

そして晩に 笑ったのは、その一日が 至極うまくいったからだ」

 

 あなたは 笑うことになる。

もう苦しむことはない。

まわり中、ことの全体が あまりにも馬鹿げている。

だが あなたには それが見えない、自分がその 一部だからだ。

あまりにもその中に のめり込んでいて、見ることが出来ない。

この馬鹿馬鹿しさは、ある距離を、分離を獲得しないうちは、知ることは できない。

 僧璨は 言う。

 

『物事の深い意味が分からぬうちは、

   心の平安はいたずらにかき乱される』

 

 人は何ひとつ得ていない、どこにも到達していない、ただ混乱しているだけだ。

どこに到達したと言うのかね。

不安と緊張と混乱によって、何を得たと言うのか。

自分とは 何か、どこへ向かっているのか。

何ひとつ得てはいない・・・「い  た  ず  ら に」。

 たとえ何かを 得ているようでも……混乱のために 自分が何かを獲得しているように思うことがあるかもしれない……何ひとつ得てなどいない。

逆に、あなたは失っている。

至福に満ちたものになりうる貴重な瞬間を、あなたは 失いつつあるのだ。

その中で開花し得たかもしれない貴重な時間、エネルギー、生命を。

そしてあなたは 花開くことができないでいる。

 

 だが、あなたは いつも こう考える……これこそ、 無知なものの見方だが……あなたは いつも思う。

「全世界が間違っている。

もし私に みんなを変えることができたなら、私は幸せになることができるのに」と。

  あ   な   た  が 幸せになることなど 決してない。

  あ   な   た   は 幸せには なり得ない……それこそが 不幸の根源なのだ。

一度 理解したら、全世界を変えようとすることなど、あなたの 役割ではない。

あなたにできるのは、唯一 自分自身を変えることだけだ。

 

 

第二章  道は完全だ (09)ヘ 続く・・・