saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」第二章  道は完全だ (11)

Pp74ー77

 

 第二章  道は完全だ (11)

 

『 外側の物事のもつれの中にも、

   内側の空無の中にも、住んではいけない。

   穏やかに、何を求めるでもなく、

   大いなる一体性の中にとどまるがいい。

   そうすれば、誤った物の見方は自ずから消えよう。 』

 

 外側と 内側を 分けてはならない。

僧璨は、「自分は外側に関心がある」と 言ってはならない、と 言う。

 

 二種類の人々がいる。

そして そのどちらも惨めになる。

C・G・ユング人間性を 二つのタイプに分けた。

その ひとつを彼は 外向的と呼び、もうひとつを 内向的と呼ぶ。

外向的人間は 外の世界に関心がある。

行動的な 世間的な人々だ。

こういう人たちは、富、名声、地位、権力を 追い求める。

彼らは 政治家になり、社会改革家になる。

偉大な指導者、大実業家になる。

物に、外側の世界に関心がある。

彼らは 自分自身には関心がない。

 

 他方、内向的な人々がいる。

彼らは あまり行動的な人たちではない。

何か しなければならないことが あれば、 それをするが、そうでないかぎり、特に何かをしたい という欲求は 持っていない。

目を 閉じたままでいたいと思う。

こういう人たちは 詩人、神秘家、瞑想者、思索家になる。

世間には関心がない。

自分自身にだけ 興味を持っている。

彼らは 目を閉じて エネルギーを内に向ける。

だが 僧璨は、 その両方が間違っている、それは彼らが 二つに分かれているからだ、 と 言う。

外交的な人は いつも自分の内側で 何かが欠けているのを感じることになる。

非常な権力者になるかもしれないが、内面深くでは、自分が無能で、無力なのを感じることになる。

外交的には 大変な富を蓄えたかもしれないが、内面的には 貧しさを感じることになる。

世間的には偉大な成功者かもしれないが、よく見れば、本人は その内面の深くでは 自分が 失敗者だと知っている。

 

 彼は 均衡が とれていない。

外側のものにばかり注意をはらいすぎた。

一方の極端に行ってしまったのだ。

 

極端がある所には、必ず不均衡がある。

 

そして 詩人、 黙想家、 神秘家であった人、いつも自分の内面にとどまっていた人は、外側の世間の中で 豊かでないために、常に 自分には何かが 欠けているという感じを持つことになる。

ところが、外側の世界も また美しいのだ。

そこには 花があり 星がある。

日が昇り、川は流れ、滝は こだまする。

こういう人が貧しいのは、全宇宙を否定しているからだ。

一人で 洞窟の中に住んで来たのは 不必要なことだった。

その間に、動いて たくさんの神秘を、まわり中にある無数の神秘を 知ることができたのだ。

彼は 閉じて、自分の内面に 閉じこもったまま、囚われ人になっていた。

この二つは 両極端だ。

 

 極端を 避けなさい。

外側の世界と 内側の世界を 区別してはいけない。

そして ユングのタイプのひとつにならないことだ。

外交的にも 内向的にも なってはいけない。

 

 僧璨は、「流れていなさい。 平衡をとっていなさい」と 言う。

外側と内側は ちょうど左脚と右脚のようなものだ。

なぜ 一方を選ぶ必要がある。

一方を 選んだら、動きは すべて止まる。

それは 二つの目のようなものだ。

もし、目を ひとつだけ選んだら、見ることはできるだろうが、見える世界は 立方体ではなくなる、遠近感は失われる。

人は 二つの耳がある。

一方だけを使うこともできる。

自分は左耳のタイプだとか という考えに取り憑かれることもあり得る。

だが それでは、損をする。

それでは、あとの半分の世界が 閉じられてしまう。

 

 内側と外側は、まさに 両目、両耳、両足のようなものだ。

なぜ 選ぶのか。

なぜ 選ばずに両方を使わない。

それに なぜ分けるのか、自分は 一人なのに……左足と右足は、ただ 二つに見えているに過ぎない。

その両方の中を 自分が流れている。

自分という 同じエネルギー、同じ存在が。

人は 自分の両目を通して見る

なぜ 内側も外側も使って、二つを平衡させようとしない。

なぜ 一方の極端に動くのか。

 

 

第二章  道は完全だ (12)へ 続く・・・

「信心銘」第二章  道は完全だ (10)

Pp72ー74

 

第二章  道は完全だ (10)

 

『 道は大いなる虚空のように完全だ。

   足りないものも、余計なものもない。

   しかり、いいとかいけないとか選り好みをするばかりに、

   本当の姿が見えないだけだ。』

 

 私たちが 本当の姿を見ることができないのは、そのためだ。

 

受け容れたり、拒否したりするためなのだ。

人は 自分の考え、意見 偏見を持ち込む。

そして あらゆるものを色づけしてしまう。

そうでなければ、すべては完全だ。

人は、 ただ 見ればいいだけだ。

濁りのない目で、どんな考えも持たずに ただ見る。

どんな拒否も、あるいは 受容もなしに、ただ 純粋に見る。

まるで、自分の目の背後には 思考(マインド)などないかのように、あたかも 自分の目が ただの鏡に過ぎないかのようにだ。

 

鏡は「美しい」「醜い」を 言わない。

 

 鏡は、前に来たものを何でも ただ映すだけだ。

そこには どんな判断もない。

もし、あなたの目の背後に 思考(マインド)が なかったら、その目が ただ映し出すだけだったら、それがただ見るだけで、「これはいい、 あれは悪い」などと 言わなかったら、非難したり、賞賛したりしなかったら、もし そうなら、あらゆるものは 申し分なく明瞭で、為されるべきことなど何もない。

この明瞭性、意見も偏見も持たない この目……それで、あなたは 光明を得ている。

 

 そうなったら、解決されるべき問題など 何もない。

〈生〉は もはや謎ではない。

それは 生きるべき、楽しむべき神秘、踊るべき舞踏だ。

そうなったら、人は〈生〉との どんな葛藤の中にもいない。

そうなったら、人は ここで何をやっているのでもない。

その時 人は ただ楽しんでいるだけだ。

その時、人は 至福に満たされている。

 

 これが天国の意味するものだ……何をするようにも 期待されていないところ、人が 至福を稼ぎ出そうとしないところ、至福が自然であり、人の上に降りそそいでいるところだ。

これは、今、 そして ここで起こり得る。

それは 僧璨(そうさん)に 起こった。

それは 私に 起こった。

あなたにも 起こり得る。

もしそれが 一人の人間に起こり得るのなら、それは すべての人に 起こり得る。

 

 

第二章  道は完全だ (11)へ 続く・・・

「信心銘」第二章  道は完全だ (09)

Pp66ー72

 

 第二章  道は完全だ (09)

(…一度 理解したら、全世界を変えようとすることなど、あなたの 役割ではない。

あなたにできるのは、唯一 自分自身を変えることだけだ )

 

 スーフィーの神秘家、バヤジットは自伝に書いている。

「若かった時、私は考え、そして神に願った。

その私の祈り全体の基調は、『全世界を変えることができるように、私に力を与えたまえ』というものだった。

誰もが私には間違って見えた。

私は、革命家だった。

地球の様相を一変しようと望んだ」

 

「もう少し成熟した時、私は 次のように祈り始めた。『少し欲ばり過ぎたようです。

人生は私の手から こぼれて行きます。

ほとんど人生の半分が過ぎてしまったのに、私は たった一人の人間も変えられませんでした。 全世界というのは大きすぎます』。

そして神に こう言った『家族だけで結構です。 私に家族を変えさせてください』」

「そして老年に至って」と バヤジットは言う。

「その家族さえも 多すぎるということが分かった。

それに 彼らを 変えようという自分は いったい何者なのか。

その時 私は理解した。

自分自身を変えることができれば それで十分だ。 いや十分以上だと。

私は 神に祈った。

『今度こそ、やっと正しい地点に来ました。 私がこれをすることだけは お許しください。

私は 自分自身を変えたいと思います』」。

「神は応えた。『今では もはや時間はない。 おまえは、初めに このことを求めるべきだった。 その時なら、 可能であったかもしれないものを』」。

 

 誰もが、これを最後に求める。

これを 最初に求める者、その人は ことの本質を理解したのだ。

その人は、自分一人を変えるだけでも 容易なことではないのを知っている。

自分が全世界だ。

自分がその中に 全世界を運んでいる。

存在するものすべては、自分の 中に 存在している。

自分が 全宇宙だ。

決して 小さなことではない。

もしこの変化が起こり得たら あなたは達成した。

そうでない限りは・・・、

『物事の深い意味が分からぬうちは、

   心の平安はいたずらに乱される。

   道は大いなる虚空のように完全だ。

   足りないものも、余計なものもない。

   しかり、いいとかいけないとか選り好みをするばかりに、

   本当の姿が見えないだけだ。』

 

「道は、大いなる虚空のように完全だ。 足りないものも、余計なものもない」。

あらゆるものは あるべきようにある。

ただ自分が その中に落ち着かなければならないだけなのだ。

ただあなただけが 落ち着いていない。

すべては あるべき姿にある。

何ひとつ 欠けてもいなければ、余計なものもない。

 

 これより よい世界を 考えられるだろうか。

賢ければ、考えられない。

愚かなら、考えられる。

現在ある この世界以上によいものなど あり得ない。

唯一の問題は、あなたがその中に 落ち着いていない ということだ。

 

 その中に落ち着きなさい。

そうすれば〈道〉は大いなる虚空のように完全だ。

何ひとつ 欠けたものもなければ、何ひとつ 余計なものもない。

すべて バランスがとれている。

あなただけが 唯一の問題だ、世界の方に問題は 何もない。

 

 これが政治的な頭(マインド)と 宗教的な頭(マインド)の 違いだ。

 

そして あなた方は みんな政治的な頭(マインド)の持ち主だ。

政治的な頭(マインド)は 考える。

「私は絶対に正しい。他は みんな間違っている」と。

そこで彼は 世界を変え始める。

レーニンガンジーヒットラー毛沢東

政治的な人間(マインド)は 

「何もかも間違っている。

もし すべてが落ち着いたら、素晴らしくなるのに」と 考える。

 

 宗教的な人間(マインド)も考える。

「私が落ち着いていないだけだ。

さもなければ、何もかも 申し分なく完全なのに」と。

 

〈道〉は 大いなる虚空のように完全だ。

何ひとつ欠けてもいなければ、何ひとつ余計なものもない。

すべてが あるべき姿だ。

完全にバランスがとれている。

ただ 一人、あなただけが 浮き足立っている。

ただ 一人あなただけが どこへ行くかを 知らない。

あなただけが 分割されている。

ちょっと考えてみなさい、もし、人間が この地上から消えたら 世界はこの上もなく完全で、この上もなく素晴らしくなるだろう。

どんな問題も 存在しないだろう。

 

 問題は 人間とともに来るのだ。

それは、人間が 意識を持っているために、そのものの見方が 間違うことがあり得るからだ。

その意識が 面倒を起こす。

意識で あるがゆえに、人は物事を 分割することができるからだ。

意識で あり得るがゆえに、「これは正しい、 あれは間違っている」と 言うことができるからだ。

意識で あり得るがゆえに、「これは醜い、あれは美しい」と 言うことができるからだ。

 

 その意識では 十分ではない。

それが もっと意識的になって、ひとつの円環になったら、完全な意識になったら、その時、再び すべてが落ち着く。

 

 ニーチェは……彼には解明すべき洞察がたくさんある……人間は 橋だ、 存在ではない、と言ったことがある。

 人は橋だ、 超えて行くべきものだ。

橋の上に家を建てることはできない。

これがイエスの言っていることだ。

「それを通り抜けなさい。

その上に家を建ててはいけない。 それは 橋に過ぎない」と。

 

 ニーチェの文章は、「人間は 自然という永遠と神という永遠の 二つの永遠の間に架かっている橋に過ぎない」というものだ。

自然の中では すべて申し分ない。

神の中でも すべては申し分ない。

人間は 橋だ。

人間は まさにその中間にいる、半分は自然で、半分は神だ。

それが 問題だ。

 

人間は 分裂している。

 

 過去は 自然に 属し、未来は 神に属している。

人間は 二つの永遠の間に張った綱のように 張り詰めている。

時には自然に向かい、時には神に向かって動く。

ある時は こちら、ある時は あちらと、絶えず震え、動揺し、落ち着かない。

落ち着きなさい、そうすれば どちらの道でも いいのだ。

 

 荘子は、自然に還って 落ち着くことを支持する。

自然の懐(ふところ)に 落ち着いたら、人は 神々のようになる。

あなたは、神々になる。

 仏陀は、前進して神になる道を支持する。

そうやっても 人は落ち着く。

後ろに 戻るか、最後の果てまで つき進むかだ。

ただ、橋の上に 止まってはいけない。

 

 これこそが 理解されねばならぬこと、最も大切な 根本的なことのひとつだ。

つまり 後ろに戻っても、前に進んでも、人は 同じ終着地に達する ということだ。

戻るか 進むか ではない。

問題は 橋の上にいない ということなのだ。

 

 老子荘子は、自然に還れ、道(タオ)に帰せ、 と言う。

 シャンカーラや 仏陀やイエスは、前進せよ、橋を 通り過ぎよ、〈神性なるもの〉に至れ と 言う。

これは ひどく矛盾して見えるかもしれないが、そうではない。

なぜなら、両岸は 同じものだからだ。

つまり、この橋は輪になっているからだ。

 

 後ろに戻ろうと、前に進もうと、どちらの道を選んでも 同じ終着地に達する。

同じ寛(くつろ)ぎの地点に到達する。

もしあなたが、自分には 手放しは不可能だ という気がするなら、パタンジャリの道、努力の道、意志の、奮闘の、探索の道に 従うがいい。

そうすれば、あなたは 前に進むことになる。

 

 もしあなたが、逆効果の法則を理解できるような気がするなら、理解できるだけではなく、自分の中に 起こらせることができるような気がするなら、僧璨(そうさん)や荘子に……後戻りの道に従うがいい。

だが、今いる所に止まっていてはならない。

橋の上では 二つに引き裂かれてしまうからだ。

そこで寛ぐことはできない、そこに 家を作ることはできない。

橋は 家を建てる場所ではない。

それは 終着地ではない、通り過ぎるべきものにすぎない。

 

 ニーチェは 言う。

「人間は超えられるべきものだ。

人間は、存在ではない。

動物には存在がある。神には存在がある。

だが、人間は まだ存在になっていない。

人間は ひとつの移行、過渡期だ。

ひとつの完全から別の完全への移行。

人は 中間で引き裂かれている」と。

 

 僧璨(そうさん)は、戻れ と 言う。

そして もし、あなたたちが尋ねるなら、私は僧璨の方が パタンジャリより易しい と 言おう。

結局は、同じことが起こる。

たくさんの努力が、あなたを無努力に連れて行くことになる。何も 努力もしなくても、やはり あなたは 無努力になる。

なぜなら、努力は 決して目的地にはなり得ないからだ。

努力は 手段でしかあり得ない。

人は、どこまでも永遠に努力し続けることはできない。

人は 無努力の状態に至るために 努力するのだ。

 

 パタンジャリにあっては 努力は通り路、無努力が終点だ。

努力は手段、無努力が目的だ。

 

僧璨の道では、無努力が手段で、無努力が終点だ。

僧璨では、最初の 一歩は 最後の 一歩だ。

僧璨にあっては、手段と目標の 区別はない。

だが、パタンジャリには 区別がある。

人は たくさんの段階を 通り過ぎなければならない。

 

 だから、パタンジャリの道では、光明は 段階的に起こる。

僧璨の道では、光明は 一瞬のうちに、まさに 今のこの瞬間にも、起こり得る。

それは 突然のものであり得る。

もし あなたが僧璨を理解できるなら、それ以上に素晴らしいものはない。

だが、理解できなければ、その時は パタンジャリが唯一の道だ。

 

 

 第二章  道は完全だ (10)へ 続く・・・

「信心銘」第二章  道は完全だ (08)

Pp61ー66

 

 第二章  道は完全だ (08)

( …誰か 苦しんでいる時には、それは 必ずその人が 事態を、物事のより深い意味を 理解していない ということだ。

だが 人は、自分の苦しみを 他人(ひと)のせいにして 他人を責め続ける )

 

 この世には、他人のために苦しんでいる者など 一人もいない。

あなたが苦しんでいるのは、あなたの無理解の、あるいは 誤解のせいだ。

 

 例えば、私の所に来た ある人、夫であり、五人の子供の父親は こう言う。

「私は ほとほとまいっています。

妻は 私を支配しようとして、口応えをしますし、子供たちは 私の言うことなど聴きません。

母親の影響力が あまり強くて、子供たちは妻の言うことは聴いても、私の言うことなど聴こうともしないのです。 私のことなど問題にもしません。

とてもやりきれない気持ちです。

何とかしてください。 あなたの お慈悲で妻を もう少し、物の分かるようにしてやってください」

私は 言った。

「それは 不可能だ。 私の慈悲だろうと、誰の慈悲だろうと、第三者をもっと物分りよくすることなどできない。

まだあなたなら そうできる可能性もあるがね。

それに、相手に理解を求めた時、あなたは すべての要点を逃している。

奥さんが 支配的に見えるのは どうしてだろう。

奥さんが 支配的に見えるのは、あなたも、 その支配をめぐって争っているからだ。

もしあなたが 支配争いを していなかったら、奥さんが支配的に見えることはないはずだ。

それは、 あなた方 二人が、同じ目的地をめざしているためにある戦いだ。

それに、子供たちが母親に従って 何がいけないのかね。

しかし あなたは、子供に 自分の言うことを聴いてほしい。 だから、そういう争いがあるのだ」

 

 理解しようとしてごらん。

誰もが 支配しようとしている。

それこそが 自我(エゴ)の本質だ。

相手を支配するために あらゆる努力をする。

相手が 夫であろうと、妻であろうと、子供であろうと、友だちであろうと、何も違いはない。

支配するために、支配のための 方法と手段を見つけるために あらゆる努力をするのだ。

 

 誰もが支配しようとしているのに、あなたも 支配しようとすれば、そこには 争いが起ることになる。

争いは、他の者が支配しようとしているから あるのではない。

その争いは、あなたが、自我(エゴ)の働き方を理解しようとしないためにあるのだ。

 

 あなたが そこから 降りなさい。

他人を 変えることはできない。

それに、他人を 変えようとしたら、無用に 一生を浪費することになる。

それは その人たちの問題だ。

理解していなければ、苦しむのは その人たちだ。

なぜ あなたが苦しまなければならないのか。

あなたは ただ、 誰もが 支配しようとしていることを 理解すればいいだけだ。

「私は ここから降りる。 もう支配するつもりはない」と。

あなたの 闘いは消え、ある 実に美しいことが起こる。

 

 こちらが 支配しようとしなければ、奥さんは馬鹿みたいに感じ始める。

やがて自分が 馬鹿に見えてくる。

何しろ 戦うにも相手がいないのだから。

戦えば、あなたは 相手のエゴを 強めている。

これは 悪循環だ。

 

 こちらが 相手にならなければ、向こうは独りで戦っているような 気がしてくる。

真空の中で、風を相手に、あるいは 幽霊を相手に戦っているような感じになる、人を相手に 戦っている気がしない。

そうすれば、あなたは、相手にも事態を見究め、理解するための 機会を与えたことになる。

そうなれば、奥さんは あなたのせいにはできない。

奥さんは 自分で自分の責任を 取らざるを得ない。

 

 誰にとっても 問題は 同じだ。

人間の本性は 大なり小なり同じように機能するからだ。

違いは 程度の問題に過ぎない。

理解しようとすれば、人は 一人のドロップ・アウトになる。

社会から降りる というのではない。

ヒッピーになって コミューンを作る というのではない。

そんなことが要点ではない。

 

 心理的に、もう そういうエゴ・トリップには入らなくなるのだ。

支配や 攻撃や 暴力や怒りには入らなくなる。

もう その一部ではなくなる。

すると、ある距離、ある分離が生じる。

今度は自分で、 事態を見られるようになる。

そして 人がいかに愚かであるかを 笑えるようになる。

自分が、いつも、どんなに馬鹿げていたかを 笑うことができるのだ。

 

 臨済(りんざい)について こんな話がある。

 彼は 朝起きると、いつも 腹をかかえて 大笑いした。

その声は あまりにも大きく、全叢林の五百人の僧侶に聞こえるほどだった。

夜 寝る時、彼は もう一度 高らかに笑った。

 

 何人も その理由を訊く者があったが、臨済は ただ笑うだけで 答えようとはしなかった。

 臨済が入寂しようという時、誰かが尋ねた。

「一つだけ お訊きしたいことがあります。

これまで、 毎日、朝 起きた時と、 夜と、なぜお笑いになったのでしょうか。

一人も そのわけを知る者がおりませんし、私たちが訊いた時には いつもまた笑われるばかりでした。

どうしても不思議で仕方がありません。

肉体を去られる前に、どうか理由をお明かしください」

 臨済は こう言った。

「わしが笑ったのは この世が あまりにも馬鹿げているからだ。

朝起きて 笑ったのは、さて、また まわり中 馬鹿者だけの世界に入って行くか、と思ったからだ。

そして晩に 笑ったのは、その一日が 至極うまくいったからだ」

 

 あなたは 笑うことになる。

もう苦しむことはない。

まわり中、ことの全体が あまりにも馬鹿げている。

だが あなたには それが見えない、自分がその 一部だからだ。

あまりにもその中に のめり込んでいて、見ることが出来ない。

この馬鹿馬鹿しさは、ある距離を、分離を獲得しないうちは、知ることは できない。

 僧璨は 言う。

 

『物事の深い意味が分からぬうちは、

   心の平安はいたずらにかき乱される』

 

 人は何ひとつ得ていない、どこにも到達していない、ただ混乱しているだけだ。

どこに到達したと言うのかね。

不安と緊張と混乱によって、何を得たと言うのか。

自分とは 何か、どこへ向かっているのか。

何ひとつ得てはいない・・・「い  た  ず  ら に」。

 たとえ何かを 得ているようでも……混乱のために 自分が何かを獲得しているように思うことがあるかもしれない……何ひとつ得てなどいない。

逆に、あなたは失っている。

至福に満ちたものになりうる貴重な瞬間を、あなたは 失いつつあるのだ。

その中で開花し得たかもしれない貴重な時間、エネルギー、生命を。

そしてあなたは 花開くことができないでいる。

 

 だが、あなたは いつも こう考える……これこそ、 無知なものの見方だが……あなたは いつも思う。

「全世界が間違っている。

もし私に みんなを変えることができたなら、私は幸せになることができるのに」と。

  あ   な   た  が 幸せになることなど 決してない。

  あ   な   た   は 幸せには なり得ない……それこそが 不幸の根源なのだ。

一度 理解したら、全世界を変えようとすることなど、あなたの 役割ではない。

あなたにできるのは、唯一 自分自身を変えることだけだ。

 

 

第二章  道は完全だ (09)ヘ 続く・・・

「信心銘」第二章  道は完全だ (07)

Pp59ー61

 

 第二章  道は完全だ (07)

 

 助けになるように、二つのことを言っておこう。

ひとつは、眠りのことだ。

どのように眠りが起こるのか、自分がどのように眠りにおちて行くのかを見つけ出してごらん。

あなたには ある儀式があるかもしれない。

しかし、その儀式が眠りを 作り出しているわけではない。

それは 助けるだけだ。

誰でも ある種の儀式を持っている。

小さな子供たちは 自分の儀式、ある 決まった姿勢を持っている。

どんな子供にも 自分の姿勢がある。

ある子は 親指を口にくわえるかもしれない。

それが 眠りを与えるわけではないが、その子にとっては それが役に立つ。

その子は、自分の儀式を発見したのだ。

が、その子の 真似をしても、誰もが 眠りに入れるわけではない。

 

 すべての 瞑想技法についても、同じことが言える。

 

誰もが 自分の儀式を見つけている。

それは 役に立つ。

それが ある雰囲気を 醸(かも)し出すからだ。

灯りを消し、部屋の中で ある決まった 香をたく。

決まった衣を 身につけ、決まった 高さ、決まった 柔らかさの中に 身をおく。

いつもの 毛布をかけ、ある特定の姿勢をとる。

このすべてが、眠りを助ける。

だが、これが眠りを起こすわけではない。

他の誰かが 真似をしたら、それが 眠りの妨げになるかもしれない。

人は 自分自身の儀式を見つけなければならない。

 

 儀式は、 ただ 楽に寛(くつろ)いで、待てるようにするために あるに過ぎない。

そして 寛いで待っている時、そのことが 起こる。

まさに 眠りのように、 神は あなたの所にやって来る。

まさに 愛が起こるように、神はあなたの所にやって来る。

人は それを、 意志することはできない。

それを強いることはできない。

 

 あまりにも 物事のやり方を学び過ぎたために、あなたたちの人生は ひとつの問題になってしまった。

あなたたちは 機械的な物事については、極めて有能になったが、それは  や   る   ことができるからだ。

しかし、人間的な事柄については、あなたたちは まったく無能になってしまった。

なぜなら、それは学習することはできないし、また 操作的に為し得ることではないからだ。

それについての 能率専門家になることはできない。

 

 機械的にできることなら、そのための訓練所が必ずあるものだ。

だが 意識を訓練することは できない。

そこで人は、光明を得られるような技法や呪文を 見つけ出そうと、あれこれ導師達の あとを追いかける。

だが、光明を得させられる呪文などない。

 

 これこそが その 呪文(マントラ)だ。

僧璨(そうさん)は、人は もっと理解するようにならなければならない、 と 言う。

すなわち、もっと 意志を 少なく、より手放しに、より 努力を少なく、より無努力になり、意識の行為をより少なく、 もっと無意識の海を泳ぐように、 と。

 

 では、 経文の理解に入ろう。

『物事の深い意味が分からぬうちは、

   心の平安はいたずらに乱される。』

 

「物事の 深い意味が分からぬうちは、心の平安は いたずらに乱される」。

理解すれば、そこに平安が現われる。

理解しなければ、そこには 騒動と、 緊張と、 苦悩が現われる。

 

誰か 苦しんでいる時には、それは 必ずその人が 事態を、物事のより深い意味を 理解していない ということだ。

だが 人は、自分の苦しみを 他人(ひと)のせいにして 他人を責め続ける。

 

この世には、他人のために苦しんでいる者など 一人もいない。

あなたが苦しんでいるのは、あなたの無理解の、 あるいは誤解のせいだ。

 

 

第二章  道は完全だ (08)ヘ 続く・・・

「信心銘」第二章  道は完全だ (06)

Pp58ー59

 

 第二章 道は完全だ (06)

 

 その過程は 同じだ。

愛を 意志することはできない。

意志すれば、美しさは すべて失われる。

すべては 機械的になってしまう。

おきまりの儀式を 全部終えても、何も起こらない。

そこに 歓喜はなく、それは 何かしなければならないこと、片づけなければならないことになる。

けっして自分の中心に達することはない。

けっして自分を根底から揺るがすことはない。

けっして自分の内なる踊りになることはない。

それは 自分の 実存の脈動ではない。

単なる 表面上の行為に過ぎない。

いいかね、愛は意志できない。

そして 瞑想も意志できないのだ。

 

 知識は すべて 投げ出しなさい。

知識は、何かをしなければならない時にしか 必要ないからだ。

何もする必要がないのに、何の知識が要るのか。

どんな知識もいらない。

ただ ある感じ(フィーリング)を、いかに落とすか、いかにして 存在しないでいるかを知るための ある  こ   つ  を つかむ必要が あるだけだ。

そして私が「いかにして」と 言う時、それは 技術的なことではない。

私が「いかにして」と 言ったとしても、それは技術を習得しなければならないと 言っているのではない。

人は それを探し求めなければならないだけだ。

 

 助けになるように、二つのことを言っておこう。

ひとつは、眠りのことだ。

どのように眠りが起こるのか、自分がどのように眠りにおちて行くのかを見つけ出してごらん。

 

 

 第二章  道は完全だ (07)へ 続く・・・