saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」 第1章   大いなる道 (09)

 

『 大いなる道は難しくない、

   選り好みをしなければよいだけだ。

   愛も憎しみもなければ、

   すべては明瞭で、隠されたものとてない。

   だが、ほんの僅かな区別でもすれば、

   天と地は無限に離れる。

   だから、真実を見たいと願うなら、

   いいとか、駄目だとかの意見を持たぬことだ。

   好きと嫌いの葛藤、

   これが 心の病いだ。 』

 

Pp25ー31

 

 第1章   大いなる道 (09)

 

 まさに荘子と同じように、

「易しいことは正しい」。

「大いなる道は 難しくない」。

もしそれが難しく見えるようなら、それを難しくしているのは、あなただ。

大いなる道は 易しい。

 

 

 どうしてそれが難しいものであり得よう。

樹でさえ それに従っている。

川も 従い、岩も 従っている。

どうしてそれが 難しいものであり得よう。

鳥さえも その中を飛び、魚も その中を泳いでいる。

どうしてそれが 難しいものであり得よう。

人が それを難しくする。

思考(マインド)が それを難しくする。

そして、どんな易しいものでも 難しくする秘訣は、選ぶこと、 区別することだ。

 

 愛することは 易しい、憎むことは 易しい。

だが、 人は選択する。「私は 愛するだけで、憎まないことにしよう」と 言う。

さあ、 これで すべては難しくなる。

今度は 愛することもできない。

息を吸うことは易しい、息を吐くことは易しい。

が、人は選択する。「息を 吸うだけで、吐かないことにしよう」と言う。

これで、何もかも 難しくなる。

 

 思考(マインド)は、こう言うかもしれない。

「なぜ息を吐くことがあるのか。 息は生命だ。 単純な算術じゃないか。

息を吸い続けるんだ、吐き出すな。 そうすれば、おまえは もっともっといきいきして来るだろう。

もっともっと 命がたまるはずだ。 生命の大倉庫になるはずだ。 息を吸い込むだけにするんだ。 吐き出すな。

だって息を吐き出すことは 死ぬことじゃないか」と。

 

 いいかね、子供が生まれて 最初にしなければならないことは、息を吸うことだ。

そして 人が死ぬ時 最後にしなければならないことは、息を 吐き出すことだ。

〈生〉は 息を吸うことで始まり、死は 息を吐き出すことで始まる。

息を吸う瞬間ごとに 人は 生まれ変わる。

息を吐き出す瞬間ごとに 人は 死ぬ。

息が 生命だからだ。

ヒンドゥー教徒が息を「プラーナ」と呼ぶのは そのためだ。

「プラーナ」とは 生命(いのち)を 意味する。 息は 生命だ。

 

 これは単純な論理、単純な算術だ。

息を どんどん吸い込んで吐き出さなければ、決して死ぬことはない、と証明するのに さしたる手間は かからない。

息を吐き出せば、死ななければならないことになる。

息を吐き出し過ぎれば、すぐに死んでしまうことになる。

算術だ、単純で分かりやすい、分かりやすく見える。

そこで 論理家なら、どうするだろうか。

論理家なら、ただ息は吸い込むだけで、決して 吐き出さない ということになる。

愛は 息を吸い込むこと、憎しみは 息を吐き出すことだ。

 

 では、どうすべきか。

決めなければ〈生〉は 易しい。

何しろ、 息を吸い込むことと 息を吐き出すことが、対立するものではないことを、それは ひとつの過程の 二つの部分であり、しかも それは有機的な部分で、分割はできないことが 分かっているのだから。

だから、もし息を 吐き出さなったら どうなるか・・・。

論理は 間違っているのだ。

それでは 生きてはいられない……すぐに死ぬことになるだけだ。

 

 やってみなさい。

ただ吸い込むだけで 息を 吐き出さないでみなさい。

ものすごく緊張して来るのが、 すぐにも分かる。

全身が 息を吐き出そうとするはずだ、そのままでは 死んでしまうのだから。

選べば、難しくなる。

選ばなければ、あらゆることは易しい。

易しいのが 正しいのだ。

 

人間が 窮境に陥っているとすれば、それは あまりにもたくさんの教師がいて、人の 頭(マインド)を 毒してきたためだ。

連中は、「これを選びなさい。 こうしてはいけない、ああしなさい」と 教えて来ている。

その「しなさい」「してはいけない」が あなたたちを 殺してしまった。

しかも彼らは 論理的に見える。

議論すれば、彼らが勝つだろう、論理は彼らに 味方するだろう……分かり切ったことじゃないか、それが死なら どうして息を吐き出すことがあるのか、 と。

 そして、これが実際に起こったのだ。

呼吸に関して だけでなく、しかも、呼吸に関してまで起こった。

 

 人は呼吸の数で 年齢(とし)を取る、と唱える ヨガの一派がある。

命は 年齢によって ではなく、呼吸の数によって勘定される と言う。

だから ゆっくり息をしなさい、一分間に十二回 息をすれば 早く死ぬから、六回か三回に しなさい、そうすれば それだけ永く生きられる、 と 言うのだ。

 

 誰一人 成功したためしはない。

だが人は 試み続ける、呼吸を遅くしろ、 と。

なぜか。

ゆっくり息をすれば、吐き出す息は、それだけ 少なくなる。

だから、死の起こる度合いも それだけ少なくなる、つまり、それだけ 長生きできる、と 言うのだ。

起こることといえば、生きる興味が失せるくらいのものだ。

寿命が延びるのではないが、より長くは 見えるかもしれない。

 

 結婚したら 独り者よりは長生きする と 言われている。

それで誰かが ナスルディンに訊いた。

「これは 本当かね、ナスルディン」

ナスルディンは 言った。

「そう見えるのさ。 結婚した男が 長生きするわけじゃないけど、いかにも長く生きて来たような気がするんだ」

 

 つまり、面倒が多ければ 時間は 長く見え、何の面倒もなければ、時間は 短く見える というわけだ。

 

ゆっくり、しかも なるたけ少なく息をし続けようとする、こういう いわゆるヨガ行者たちは、ただ 人生の速度を緩めているに過ぎない。

より少なく 生きている、それだけだ。

より長生きするのではなく、より少なく生きているのだ。

彼らは 十分に生きてはいない。

その蠟燭は完全に燃えてはいない。

心からの喜びが、熱中が、踊りが 失われている……彼らは 自分を引きずっているのだ。

それだけだ。

 

 これがセックスについても 起こった。

と言うのは、人々は セックスと一緒に 死が入って来ると思ったからだ。

たしかに彼らは正しい。

性エネルギーが〈生〉に 誕生を与えるのだから、性エネルギーが 出て行けば行くほど、それだけ多く 生命も外に出て行ってしまうことになる。

論理的だ、まったく アリストテレス的だ。

だが 馬鹿げている。

論理家以上の愚か者は あり得ない。

〈生〉のエネルギーが セックスから来ていると言うのは論理的だ。

子供は セックスのゆえに 生まれる、セックスは 命の源泉だ、だから それを内に保ち、それが 外に出て行くのを 許すな、さもないと 死んでしまうぞ、というわけだ。

全世界がセックスを 恐れるようになった。

 

 しかし、これも同じことだ。

まさに 息を吐き出さないようなものだ。

そうなると全存在が それを外に投げ出そうとする。

すると いわゆるブラーフマチャーリンたち、禁欲家たちは、全身が それを 投げ出そうとしているのに、性エネルギーを、精子を出すまいとすることになる。

かくて、彼らの〈生〉は すべて 性的になる。

その思考(マインド)は 性的になり、セックスの 夢を見、セックスのことを 考える。

セックスが 彼らの強迫観念になる。

それは 彼らが、たしかに論理的ではあるが、〈生〉に対して 真実ではないことを しようとしているからだ。

しかも 彼らは 長くは生きない、早死する。

これは 最近の発見、最近の調査なのだが、人は 愛情生活を なるべく長く続けた方が 長生きすると 言う。

 

 八十歳に なっても愛を交わすことが出来れば その方が長生きする。

なぜだろう。

なぜなら、息を 吐き出せば吐き出すほど、それだけ 多く息を 吸い込むことになるからだ。

だから、より多くの生命を 求めるなら、内側に 真空ができるほどに、もっと たくさんの息を 吐き出すことだ。

そうすれば それだけ多くの息が 入って来る。

息を吸うことなど 考えないことだ。

できるだけ 息を吐くだけでいい。

そうすれば、全身が 息を吸い込もうとする。

もっと 愛しなさい……それが息を吐くことだ……そうすれば 肉体が全宇宙から 新しいエネルギーを 集めることになる。

真空を作れば エネルギーは やって来る。

 

〈生〉のあらゆる過程が まさにこの通りだ。

人は 食べる……だが、そこで 出し惜しんで、人は便秘する。

論理は正しい。

息を吐くなかれだ。

便秘とは、息を吸うのに 賛成して、息を吐くのに 反対することだ。

ほとんど すべての文明人が、便秘している。

文明は 便秘によって 測ることができる。

より便秘している国が より文明化されている ということだ。

それだけ 論理的だからだ。

 

 

 第1章   大いなる道 (10)へ 続く・・・