saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」第二章  道は完全だ (11)

Pp74ー77

 

 第二章  道は完全だ (11)

 

『 外側の物事のもつれの中にも、

   内側の空無の中にも、住んではいけない。

   穏やかに、何を求めるでもなく、

   大いなる一体性の中にとどまるがいい。

   そうすれば、誤った物の見方は自ずから消えよう。 』

 

 外側と 内側を 分けてはならない。

僧璨は、「自分は外側に関心がある」と 言ってはならない、と 言う。

 

 二種類の人々がいる。

そして そのどちらも惨めになる。

C・G・ユング人間性を 二つのタイプに分けた。

その ひとつを彼は 外向的と呼び、もうひとつを 内向的と呼ぶ。

外向的人間は 外の世界に関心がある。

行動的な 世間的な人々だ。

こういう人たちは、富、名声、地位、権力を 追い求める。

彼らは 政治家になり、社会改革家になる。

偉大な指導者、大実業家になる。

物に、外側の世界に関心がある。

彼らは 自分自身には関心がない。

 

 他方、内向的な人々がいる。

彼らは あまり行動的な人たちではない。

何か しなければならないことが あれば、 それをするが、そうでないかぎり、特に何かをしたい という欲求は 持っていない。

目を 閉じたままでいたいと思う。

こういう人たちは 詩人、神秘家、瞑想者、思索家になる。

世間には関心がない。

自分自身にだけ 興味を持っている。

彼らは 目を閉じて エネルギーを内に向ける。

だが 僧璨は、 その両方が間違っている、それは彼らが 二つに分かれているからだ、 と 言う。

外交的な人は いつも自分の内側で 何かが欠けているのを感じることになる。

非常な権力者になるかもしれないが、内面深くでは、自分が無能で、無力なのを感じることになる。

外交的には 大変な富を蓄えたかもしれないが、内面的には 貧しさを感じることになる。

世間的には偉大な成功者かもしれないが、よく見れば、本人は その内面の深くでは 自分が 失敗者だと知っている。

 

 彼は 均衡が とれていない。

外側のものにばかり注意をはらいすぎた。

一方の極端に行ってしまったのだ。

 

極端がある所には、必ず不均衡がある。

 

そして 詩人、 黙想家、 神秘家であった人、いつも自分の内面にとどまっていた人は、外側の世間の中で 豊かでないために、常に 自分には何かが 欠けているという感じを持つことになる。

ところが、外側の世界も また美しいのだ。

そこには 花があり 星がある。

日が昇り、川は流れ、滝は こだまする。

こういう人が貧しいのは、全宇宙を否定しているからだ。

一人で 洞窟の中に住んで来たのは 不必要なことだった。

その間に、動いて たくさんの神秘を、まわり中にある無数の神秘を 知ることができたのだ。

彼は 閉じて、自分の内面に 閉じこもったまま、囚われ人になっていた。

この二つは 両極端だ。

 

 極端を 避けなさい。

外側の世界と 内側の世界を 区別してはいけない。

そして ユングのタイプのひとつにならないことだ。

外交的にも 内向的にも なってはいけない。

 

 僧璨は、「流れていなさい。 平衡をとっていなさい」と 言う。

外側と内側は ちょうど左脚と右脚のようなものだ。

なぜ 一方を選ぶ必要がある。

一方を 選んだら、動きは すべて止まる。

それは 二つの目のようなものだ。

もし、目を ひとつだけ選んだら、見ることはできるだろうが、見える世界は 立方体ではなくなる、遠近感は失われる。

人は 二つの耳がある。

一方だけを使うこともできる。

自分は左耳のタイプだとか という考えに取り憑かれることもあり得る。

だが それでは、損をする。

それでは、あとの半分の世界が 閉じられてしまう。

 

 内側と外側は、まさに 両目、両耳、両足のようなものだ。

なぜ 選ぶのか。

なぜ 選ばずに両方を使わない。

それに なぜ分けるのか、自分は 一人なのに……左足と右足は、ただ 二つに見えているに過ぎない。

その両方の中を 自分が流れている。

自分という 同じエネルギー、同じ存在が。

人は 自分の両目を通して見る

なぜ 内側も外側も使って、二つを平衡させようとしない。

なぜ 一方の極端に動くのか。

 

 

第二章  道は完全だ (12)へ 続く・・・