saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」第二章 道は完全だ (05)

Pp56ー58

 

 第二章  道は完全だ (05)

 

(…操作してはいけない。 物事が起こるにまかせなさい)

 

 クンダリーニ瞑想をしているのなら、身体が揺れて来るのにまかせなさい。

それを  や   っ   て  は いけない。

静かに立って、それが来るのを 感じなさい。

そして身体が かすかに震え始めたら、それを手伝いなさい。

だが、 それを  や   っ   て  は いけない。

楽しみなさい。

至福を 感じるといい。

それを許し、受け容れ、歓迎しなさい。

だが 意志してはいけない。

 

 それを 強いたら、それは 実技に、体操になってしまう。

そうなれば 震動はするだろうが、ほんの表面のことに過ぎない。

あなたを 貫きはしない。

あなたは 内側が堅いまま、石みたいに、岩みたいに堅いままでいるだろう。

あなたは 操作する者、行為者として、そのまま残り、肉体が ただそれに従っているだけになる。

肉体が 問題なのではない、あなた が 問題なのだ。

 

 揺らしなさいと 言う時、私が言っているのは、あなたの堅さが、その岩のような実存が液体になり、柔らかく溶けて、流れ出すように、まさに その根底まで揺らすように ということだ。

すると、その岩のような実存が 液体になれば、肉体は ついて来るのだ。

そうすれば、そこには もう、揺   す   る   こ   と  は ない。

ただ  揺   れ  があるだけだ。

もう誰も それをしてはいない。

それは ただ起こっているだけだ。

その時、行為者は いない。

 

 それを 楽しむがいい。

だが、 それを 意志してはいけない。

そして いいかね、 自分が意志したら、決して それを楽しむことはできないのだ。

その二つは 逆だ、 対極だ、決して出会うことはない。

もし、自分で意志したら、それを楽しむことはできない。

もし 楽しんでいるなら、それは意志できない。

 

 例えば、人が 愛(セックス)を 意志することはあり得る。

手引書どおりに愛することなら できるだろう。

しかし、その時、人が 愛を楽しむことはない。

愛を 楽しむなら、手引書はすべて投げ出さねばならない。

キンゼイ報告、マスターズ報告、ジョンソン報告、そういうものは すべて投げ出さなければならない。

愛について 学んだことはすべて 完全に忘れ去らなければならない。

初めのうちは 途方に暮れるだろう。

指針もなければ 地図もないのだから。

どうやって始めるのか。

 

 ただ待ちなさい。

自分の内なるエネルギーが 動き出すのを待ち、どこでも そのエネルギーが導く所に従いなさい。

それには少し時間が かかるかもしれない。

だが 愛が来た時には、それは あなたを圧倒する。

自分は もういない。

愛はあるが、 愛する者は いない。

エネルギーとして 愛はおこるが、その中に エゴはいない。

そうなれば、それは 途方もないこと、大いなる解放だ。

その時、愛は歓喜になる。

そしてあなたは、〈神性なるもの〉に達した人たちに知られている 何かを知る。

その断片を、大海の一滴を知る。

あなたは 一条の光を知る。

その味わいが あなたの所にやって来る。

 

 瞑想、神、光明、涅槃(ねはん)、それらは すべて愛を通じて生まれた。

愛を通じて 一瞥(いちべつ)が 得られたからだ。

その一瞥が 得られた時、勇敢な魂は、この一瞥がやって来た 源を求めて冒険を続けたのだ。

愛を通じて、神は見出された。

「神とは 何か」と訊かれた時、イエスが常に「神は愛だ」と 言うのはそのためだ。

愛を通して 最初の一瞥が来るからだ。

 

 

第二章  道は完全だ (06)へ 続く・・・

 

「信心銘」 第二章 道は完全だ (04)

P56

 

  第二章  道は完全だ (04)

 

眠りは 自分がいない時に やってくる。

〈光明〉も また同じ規則に従う。

それは 自分がいない時にくる。

しかし、自分が 何かをしていたら、どうやって、同時に そこにいないことなどできるかね。

何かを していれば、自分は そこにいる。

行為が 自我(エゴ)を養うのだ。

自分が 何も していなければ、自我は養われ得ない。

それは ただ消える。

死んで、 いなくなる。

そして 自我が そこにいない時、光が 降りてくる。

だから 自分が 意志してやることは どんなものでも、すべて障害になるのだ。

 

 ここでの 私の瞑想法も、意志的にではなくやりなさい。

強制しないで、むしろ それを起こさせなさい。

その中に 漂い、身を委ねるのだ。

吸いこまれてごらん。

ただし 意志的にではなくだ。

 

操作してはいけない。

操作すれば 分割されて、操作する者と操作される者の 二人になるからだ。

 

いったん 自分が 二つになれば、即座に 天国と地獄がつくられる。

そうなれば、あなたと真理の間には、広大な距離が できる。

操作しては いけない。

物事が 起こるにまかせなさい。

 

 

 第二章  道は完全だ   (05)へ 続く・・・

 

「信心銘」 第二章 道は完全だ (03)

Pp54ー56

 

  第二章  道は完全だ (03)

 

 ほとんど 九十パーセントの子供が、昼ではなく 夜生まれているということを 知っているかね。

どうしてだろう。

半々の はずだ。

子供は なぜ夜のほうを多く選ぶのか。

しかも 九十パーセントとは!

それは 母親が無意識に、手放しになるからだ。

母親は 眠っており、子供は容易に外に出て来られる

 

 意識が あれば、母親は努力をすることになる。

すると 逆効果の法則が働く。

母親が 目覚めていれば、苦痛が過ぎ去るように、早く終わるように、子供が生まれてくるようにと、いろいろ努力をする。

ところが 努力はすべて障害になる。

妨害していることになる。

努力すれば するほど、通路は それだけ狭くなる。

子供は 出てこられない。

 

 原始的な社会では、母親は 子供を産む時に痛みを 感じない。

まったく 何の痛みも感じない。

これは 奇跡だ。

西洋の医学が 初めてこの事実を発見した時、母親が出産の時 何の痛みも感じないような原始的な社会が、まだ存在している事実を発見した時には、それが信じられなかった。

どうしてそんなことが可能なのか、 と。

 

 そこで調査がなされた。

たくさんの実験、たくさんの調査研究が行われた。

すると それは母親たちが 無意識であるためだ という事実が判明した。

彼らは野生動物のように 生きている。

戦闘もなく、争いもなく、強制もない。

彼らは 何ひとつ意志しない。

ただ 漂うだけだ。

彼らは原始的で、あまり意識的な思考(マインド)というものを 持っていない。

文明化されればされるほど、人は 意識的な思考(マインド)を 持つ。

文明化されればされるほど、意志が訓練される。

無意識は 遠く遠く、より深く 離れて行き、そこには 隙間がある。

 

しなければならないことが 何かあれば、どんなに難しくても、どうやったらいいか、その やり方を見つけることができる。

技術を 学ぶことができる。

専門家がいて、訓練を 受けることができる。

 だが 禅では、誰も 訓練は受けられない。

神に関しては、専門家はいないし権威もない。

そんなものは あり得ない。

それは やり方の問題ではなく、自分という存在に 寛ぐということ、何もしない ということだからだ。

最も偉大なこと というのは、自分がいない時にしか 起こらない。

ところが 何かをしていたら、必ず自分が そこにいなければならない。

 

 眠りは 自分がいない時に やってくる。

〈光明〉も また同じ規則に従う。

それは 自分がいない時にくる。

 

 

 第二章  道は完全だ (04)へ 続く・・・

「信心銘」 第二章 道は完全だ (02)

Pp52ー54

 

第二章 道は完全だ (02)

 

 よく こんなことがある。

人の名前や顔を 思い出そうとしているのだが、どうも思い出せない。

だが どうしても、それが喉元まで 出かかっている気がしてならない。

その感じが、あまり強くて、 今にも 出て来るに違いないと思って、何とか 思い出そうとする。

だが 努力すれば努力するほど、ますます 出て来ない。

しまいには、この感じは 本当なのかと 疑わしくさえなって来る。

だが、確かに、ある感じがあって、自分の全存在が、それがそこにある と、喉まで出かかっている と 教えている。

だが、喉元まで来ているものなら、なぜ出て来ないのか。

それは 出て来ない。

どんなことを してみても、決して 出て来ない。

 

 ついに失望して、とても 駄目だと思う。

何もかも 投げ出して、庭に出て 散歩し始めたり、新聞を 読み始める。

あるいは ラジオのスイッチを入れて 音楽を聴く。

すると突然、 それがとび出す。

いったい 何が起こったのか。

 

 それは 無意識に属していたのだ。

自分の中の 深い所にあった。

そして、それを 取り出そうとすればするほど、あなたは 狭くなった。

努力すればするほど、無意識は それだけ妨害された。

混沌として、すべては かき乱されてしまった。

それは 喉元まで来ていたのだが、あなたは 思い出そうとして あまりにも行動的だった、意志を使っていた。

そして、意志は 自分の深みにあるもの何ひとつ 持ち出すことはできない。

明け渡しだけが それをもたらす。

手放しになった時だけだ。

 

 だから、 公園に行ったり、庭を歩いたり、新聞を読み始めたり、地面に穴を 掘り始めたり、あるいは音楽を 聴き始めたりして、すべてを忘れてしまった時に、突然 それはそこにあったのだ。

これが 逆効果の法則だ。

無意識に対しては、 いいかね、 意志は役に立たない。

役に立たないだけでなく、危険で有害でもある。

 

 老子荘子ボーディダルマ、 僧璨、こういう人たちは この逆効果の法則の精通者だ。

そして これが ヨガと禅との違いだ。

ヨガは あらゆる努力をする。

禅は 努力をしない。

そして禅は、どんなヨガよりも真実だ。

だが、ヨガの方が 人に受ける。

なぜなら、あなたたちに 関するかぎり、 す   る   こ   と  は 易しいからだ。

たとえ、それが どんなに難しいことでも、 す   る   こ   と  は 易しい。

 

 し   な   い  こと は難しい。

「何もしてはいけない」と 言われれば、あなたたちは 途方に暮れる。

そして「どうしましょうか」と また尋ねる。

「何もするな」と 言われることは、あなたたちにとって、最も難しいことだ。

だが もし理解したら、そうではないはずだ。

 

 し   な   い   こ   と   には どんな能力もいらない。

 す   る   こ   と   には、何か能力がいるかもしれない。

 す   る   ためには 行為が必要かもしれないが、 し   な   い   ためには、行為は いらない。

禅が、〈光明〉は 一瞬のうちに起こり得る と言うのはそのためだ。

いかにして それを持って来るかの問題ではなく、いかにそれを許すか の問題だからだ。

それは ちょうど、眠りのようなものだ。

寛(くつろ)げば、そこに ある。

寛げば、浮び上がって来る。

それは ハートの中で浮び上がろうとしてもがいている。

表面で あまりにも行為的であるため、あなたが それを許さないのだ。

 

 ほとんど 九十パーセントの子供が、昼ではなく 夜 生まれているということを 知っているかね。

どうしてだろう。

 

 

 第二章 道は完全だ (03)へ 続く・・・

 

「信心銘」 第二章 道は完全だ (01)

Pp47ー52

  第二章  道は 完全だ  (01)

 

『物事の深い意味が分からぬうちは、

   心の平安はいたずらに乱される。

   道は大いなる虚空のように完全だ。

   足りないものも、

   余計なものもない。

   しかり、いいとかいけないとか選り好みをするばかりに、

   本当の姿が見えないだけだ。

   外側の物事のもつれの中にも、

   内側の空無の中にも、 住んではいけない。

   穏やかに、 何を求めるでもなく、

   大いなる 一体性の中にとどまるがいい。

   そうすれば、 誤った物の見方は自ずから消えよう。

   静寂を得ようとして、 行動を抑えてみても、

   まさにその努力が、 かえって人を行動で満たす。

   どちらか一方の極端にいるかぎり、

   決して 一体性を知ることはできない。

   このただひとつの道に住まぬかぎり、

   行動することにも、 静寂を得ることにも、

   断定することにも、 否定することにも失敗しよう』。

 

 

 僧璨の この経文に入る前に、二、 三 言っておこう。

 何年か前、西洋に エミール・クーエという フランス人の催眠術師がいた。

彼は 人間の思考作用(マインド)についての基本的法則のひとつを 再発見した。

彼はこれを「逆効果の法則」と 呼んだ。

これは、道教や 禅の考え方にある 最古の教えの ひとつだ。

僧璨は この法則について 語っている。

まず この法則を 理解してみなさい。

そうすれば、彼の言葉の理解が 容易になるだろう。

 

 例えば、眠れない時、人は どうするだろう。

人は 眠ろうと努力する。

あれこれ やってみるが、 何をしても それは逆効果に なるだけだ。

求めることは 決してやって来ない。

まさに その逆が起こる。

それは どんな行動も、どんな努力も、眠りを妨げるからだ。

 

 眠りとは 寛(くつろ)ぐ ことだ。

それを 持ってくることは できない。

それを 起こらせるために、何をすることも できない。

それを 強制することはできないのだ。

それを 意志することはできない。

意志の 一部ではまったくないからだ。

眠りとは 無意識の中に 入って行くことであり、あなた方の意志は、意識のほんの 断片に過ぎない。

 

 人が 無意識の中へ、その深みへ動いて行く時、意識的である その断片、意志である その断片は、表面に とり残される。

 

人は、 自分の 表面を 深みに連れて行くことはできない。

自分の 外周 を 中心へ 連れて行くことはできない。

 

 だから眠ろうと努力すれば、それは 自己矛盾になる。

まさに 反対の効果しかないことを しているのだ。

かえって目が冴えることになる。

眠りに入る 唯一の方法は、何もしないことだ。

 

 眠りが 来ていないようなら、それは 来ていない のだ。

待ちなさい、何もしてはいけない。

さもないと、 眠りを もっと遠くに追いやり、距離を作ることになる。

ただ 枕に頭をもたせて待ちなさい。

灯りを消し、目を閉じて、身を寛がせ、そして 待つがいい。

それが いつであるにせよ、来る時には来る。

どんな意志の行為も、それを もたらすことはできない。

意志は 無意識に対立するからだ。

 

 これは〈生〉の 様々の事柄で 起こる。

努力すれば、ちょうどその反対の結果が起こる。

静かになりたければ、人は 何かするだろうか。

つまり、静けさとは まさに眠りに 似ていて、強制はできないものだ ということだ。

人は それが起こるのを許すことはできる。

それが 手放しだ。

しかし それを ひねり出す方法はない。

静かになりたい時に、人は 何をするだろうか。

何かを したら、かえって静かではなくなる。

 

 静かになりたい時に、人は何かするだろうか。

静けさとは 何もしないということなのだから、ただ漂い、ただ寛げば いいのだ。

そして、 ただ 寛ぎなさいと 言う時、私は 文字通りの意味で言っている。

寛ぐための どんな方法も 用いるべきではない。

方法とは、またもや自分が 何かをしている、ということだからだ。

 

 こんな本がある。

題名は、「あなたは 寛(くつろ)がなければならない!」というのだ。

そして、この「ねばならない」は、寛ぎに対立する。

この「ねばならない」を 持ち込むべきではない。

さもないと、もっと緊張することになる。

 

 この 逆効果の法則は、エミール・クーエによって再発見された。

彼は、「物事がおこるにまかせなさい。 それを強制してはいけない」と 言っているのだ。

強制できることもある。

意識的な思考(マインド)に属することは すべて強制できる。

しかし、強制できないこともある。

無意識に属すること、深みに属することは、すべて強制できない。

 

 

 第二章  道は完全だ (02)へ 続く・・・

「信心銘」第1章   大いなる道 (15)

Pp41ー45

 

 第1章   大いなる道 (15)

 

 

『だから、真実を見たいと願うなら、

   いいとか、駄目だとかの意見を持たぬことだ。

   好きと嫌いの葛藤、

   これが 心の病いだ』

 

 

 賛成と反対、何が好きで、 何が嫌い。

これこそが 心(マインド)の病いだ。

 

なぜ人間(マインド)は 分割されるのだろうか。

どうして 一体(ひとつ)では いられないのか。

あなたたちは そうでありたい と望む、一体でありたいと願う。

だが あなたたちは、その分割に、選り好みに、好き嫌いに、水を やり続ける。

 

 つい先日も、ある女性が来て

「祝福してください。 あなたの祝福が いただきたいのです」と 言った。

が、私には、彼女が不安そうで、心配しているのが 分かったので、「どうしたのかね」と 尋ねた。

すると その女性は

「実は、私は 既に他の方の 得度を受けているものですから」と言う。

 

 葛藤が あるのだ・・・本人は 私の祝福を望んでいる。

だが 頭(マインド)は、この人は 自分の師ではない、 と言っていたのだ。

自分には 別に 師がいる、どうすれば いいか、というわけだ。

私は 彼女に、両方とも捨てなさい、と 言った。

 

もし私が「前の導師は捨てて、私を選びなさい」と 言えば、その方が楽だった かもしれない。

その方が 楽だっただろう。

それなら、思考(マインド)が 機能し続けることができるからだ。

だが、問題は同じままだったろう。

病いの名前は変わったかもしれないが、病いそのものは 同じだっただろう。

またどこかで、同じ疑いが、同じ動揺が 持ち上がったに違いない。

 

 だが私は

「両方とも捨てなさい」と 言う。

なぜなら、師に到達できる唯一の道は、自分の側に どんな選り好みも、この道かあの道かの選択もない ということだからだ。

あなたは ただ来る・・・空っぽで。 あなたは ただ来る・・・どんな意見も持たずに。

あなたは ただ来る・・・空っぽの受容器と なって。

その時初めて、人は 師のもとに来ることができる。

他に道はない。

そしてもし その師が 真理への扉になるようなら、それは そうなる。

なぜなら、それこそが準備、それこそが 得度だからだ。

 

 師は あなたが意見なしに、無心になるのを 助けるためにいる。

もし、師自身が あなたの選択になったら、彼が 障害物になってしまう。

それでは、あなたは またもや選択したことになる、またもや頭(マインド)が 使われてしまった。

頭(マインド)は 使えば使うほど、強化され、強くなる。

それを 使ってはいけない。

 

 難しい。 なぜなら、あなたたちは「私たちの信仰は どうなるのか。宗教は、 教会は、 寺院は どうなるのか」と 言うからだ。

それが あなたたちの 重荷だ。

それから自由になりなさい、それを自由にしてあげなさい。

それがあなたを この世にひきとめているもの、根づかせているものだ。

 

ところが  真理は あなたが解放されていること を 求める。

解放されたあなた が 到達する、翼を持ったあなたが 到達する、重さのないあなたが 到達するのだ。

 

 僧璨(そうさん)は 言う。

『好きと嫌いの葛藤、

   これが心の病いだ』。

 

 どうやって これに打ち勝ったらいいのか。

これに打ち勝つ方法が 何かあるのか。

いや、方法は ない。

 

人は ただそれを 理解しなければならないだけだ。

ただそれが「事実であること」を 見抜かなければならないのだ。

ただ 目を閉じ、自分の〈生〉を 見なければならない。

それを 見守れば、僧璨の真理を 感じるはずだ。

そして、その真理を 感じた時、病いは 落ちる。

それには どんな薬も ない。

なぜなら、もし薬が 与えられたら、人は その薬に 執着し始めるからだ。

そうすれば、病いは 忘れられ、逆に その薬が 好まれるようになる。

そうなれば、瞑想は ひとつの病いになる。

 

 そうではない……。

僧璨は あなたたちに どんな薬も、どんな方法も 与えるつもりはない。

僧璨は あなたたちに どうしろと勧めるつもりはない。

彼は ただ、繰り返し 繰り返し 繰り返し、千と一度も、人が どうやって自分のまわりに この窮状を すべて創り出したのか、どうやって この惨めさの中に身を おいているのかを、自分で 理解するしかないことを主張しようとするだけだ。

 

他の誰が それを創り出したのでもない。

それは 選り好みをする という、あなたの 心(マインド)の 病いなのだ。

 

 選んではいけない。

〈生〉を あるがままに、その全体性において 受け容れなさい。

全体を 見なければならない。

 

生と死を 一緒に、愛と憎しみを 一緒に、幸福と不幸を、苦悶と歓喜を 一緒に見なければならないのだ。

その 二つを 一緒に生きるなら、どこに選択があろう。

それが ひとつのものだと 分かったら、どこから選択が入って来られよう。

もし、苦悶は 歓喜に他ならず、歓喜は苦悶に 他ならない と 分かったら、幸福が不幸に他ならないことを 見ることができたら、愛が憎しみで、 憎しみが愛だと わかったら・・・そうなったら、どこに選択が あるのか、どうやって選ぶことができるのか。

その時、選択が 落ちる。

 

 自分が それを 落としているのではない。

自分が 落としたのなら、それは 自分の選択になってしまう。

これこそが 逆説だ。

それを落とすことになっているのは あなたではない。

なぜなら、もしあなたが 落としたら、あなたが善し悪しを 選んだことになるからだ。

今度の あなたの選択は、全体性だ。

あなたは 全体性に賛成で、分割に反対だ。

だが、病気は 入って来ている。

微妙なところだが……。

 

ただ 理解しなさい。

そうすれば、まさに その理解そのものが 脱落になる。

けっして自分が 落とすのではない。

 

あなたは ただ笑って、一杯のお茶を 求めるだけだ。

 

 

「第一章  大いなる道」おわり

 

著者   ラジニーシ

訳者   スワミ・パリトーショ

発行   禅文化研究所

「信心銘」第1章   大いなる道 (14)

Pp40ー41

 

第1章   大いなる道 (14)

 

『だから、真実を見たいと願うなら、

   いいとか、駄目だとかの意見を持たぬことだ』

 

 本当に真理の何たるかを 知りたければ、有神論者であってはいけない、無神論者であってはいけない。

「神はいる」と 言ってはならない、「神はいない」と 言ってはならない。

どんなことでも 自分が言ったことは 深い欲望になってしまうからだ。

そして、人は その欲望の 影に隠れているものを 何でも投影することになる。

 

 唇に横笛を当てた クリシュナの姿をした神を見たい と 思っていたら、いつかその姿を 見ることになる。

それは、 クリシュナが そこにいるからではなく、自分が持っていた欲望の種を この世のスクリーンに投影したからに過ぎない。

 十字架上のイエスを見たい と 思っていれば、いつかは それを見ることになる。

 

 何でも 自分の望むものが投影される。

だがそれは、夢の世界に過ぎない、真理に近づいて行ってるわけではない。

 

内側の種をなくしなさい・・・意見も、 賛成、 反対の考えも、哲学も持たずにいなさい。

ただ、あるがままを 見て行きなさい。

どんな思い(マインド)も 持ち運ばずに、思い(マインド)無しで 行くのだ。

 

 『だから、真実を見たいと願うなら、

   いいとか、駄目だとかの意見を持たぬことだ。

   好きと嫌いの葛藤、

   これが 心の病いだ』

 

 

第1章   大いなる道 (15)へ 続く・・・