saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」 第二章 道は完全だ (02)

Pp52ー54

 

第二章 道は完全だ (02)

 

 よく こんなことがある。

人の名前や顔を 思い出そうとしているのだが、どうも思い出せない。

だが どうしても、それが喉元まで 出かかっている気がしてならない。

その感じが、あまり強くて、 今にも 出て来るに違いないと思って、何とか 思い出そうとする。

だが 努力すれば努力するほど、ますます 出て来ない。

しまいには、この感じは 本当なのかと 疑わしくさえなって来る。

だが、確かに、ある感じがあって、自分の全存在が、それがそこにある と、喉まで出かかっている と 教えている。

だが、喉元まで来ているものなら、なぜ出て来ないのか。

それは 出て来ない。

どんなことを してみても、決して 出て来ない。

 

 ついに失望して、とても 駄目だと思う。

何もかも 投げ出して、庭に出て 散歩し始めたり、新聞を 読み始める。

あるいは ラジオのスイッチを入れて 音楽を聴く。

すると突然、 それがとび出す。

いったい 何が起こったのか。

 

 それは 無意識に属していたのだ。

自分の中の 深い所にあった。

そして、それを 取り出そうとすればするほど、あなたは 狭くなった。

努力すればするほど、無意識は それだけ妨害された。

混沌として、すべては かき乱されてしまった。

それは 喉元まで来ていたのだが、あなたは 思い出そうとして あまりにも行動的だった、意志を使っていた。

そして、意志は 自分の深みにあるもの何ひとつ 持ち出すことはできない。

明け渡しだけが それをもたらす。

手放しになった時だけだ。

 

 だから、 公園に行ったり、庭を歩いたり、新聞を読み始めたり、地面に穴を 掘り始めたり、あるいは音楽を 聴き始めたりして、すべてを忘れてしまった時に、突然 それはそこにあったのだ。

これが 逆効果の法則だ。

無意識に対しては、 いいかね、 意志は役に立たない。

役に立たないだけでなく、危険で有害でもある。

 

 老子荘子ボーディダルマ、 僧璨、こういう人たちは この逆効果の法則の精通者だ。

そして これが ヨガと禅との違いだ。

ヨガは あらゆる努力をする。

禅は 努力をしない。

そして禅は、どんなヨガよりも真実だ。

だが、ヨガの方が 人に受ける。

なぜなら、あなたたちに 関するかぎり、 す   る   こ   と  は 易しいからだ。

たとえ、それが どんなに難しいことでも、 す   る   こ   と  は 易しい。

 

 し   な   い  こと は難しい。

「何もしてはいけない」と 言われれば、あなたたちは 途方に暮れる。

そして「どうしましょうか」と また尋ねる。

「何もするな」と 言われることは、あなたたちにとって、最も難しいことだ。

だが もし理解したら、そうではないはずだ。

 

 し   な   い   こ   と   には どんな能力もいらない。

 す   る   こ   と   には、何か能力がいるかもしれない。

 す   る   ためには 行為が必要かもしれないが、 し   な   い   ためには、行為は いらない。

禅が、〈光明〉は 一瞬のうちに起こり得る と言うのはそのためだ。

いかにして それを持って来るかの問題ではなく、いかにそれを許すか の問題だからだ。

それは ちょうど、眠りのようなものだ。

寛(くつろ)げば、そこに ある。

寛げば、浮び上がって来る。

それは ハートの中で浮び上がろうとしてもがいている。

表面で あまりにも行為的であるため、あなたが それを許さないのだ。

 

 ほとんど 九十パーセントの子供が、昼ではなく 夜 生まれているということを 知っているかね。

どうしてだろう。

 

 

 第二章 道は完全だ (03)へ 続く・・・