saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」 第1章   大いなる道 (13)

Pp37ー40

 

 第1章   大いなる道 (13)

 

『愛も憎しみもなければ、

   すべては明瞭で、隠されたものとてない』

 

 心(マインド)は 愛したり、憎んだりせずにはいられない。

心(マインド)は たえずこの二つの間で 闘っていなければならない。

もし 好きでも嫌いでもなかったら、人は 思い(マインド)を 超える。

そうなったら どこに思い(マインド)があるか。

自分の中で 思考(マインド)は 消え去る。

選択があれば、たとえ「私は静かでいたい」と 言っても、けっして静かでは いられない。

そこに 好みがあるからだ。

これこそが 問題なのだ。

 

 人々は、私の所にやって来て言う。

「静かになりたいのです。 もうこれ以上、こんな緊張をしていたくありません」。

私は、この人たちを 気の毒に思う、気の毒なのは、彼らの 言っていることが 馬鹿げているからだ。

これ以上緊張したくない と 思えば、新しい緊張を 生み出すことになるのだ。

なぜなら、その したくない という思いが 新しい緊張を 作ることになるからだ。

つまり、静けさを 望み過ぎたら、それをあまり求めたら、その沈黙そのものが 緊張になり、今度は そのために もっとかき乱されることになる。

 

 静けさ とは 何だろう。

それは 深い 理解だ。

自分が 選り好みをしたら 緊張する、という現象に対する理解なのだ。

たとえ、沈黙を選んでも、緊張することになる。

 

 理解しなさい。

それを 感じなさい。

選り好みをすれば 必ず自分が 緊張する。

選り好みをしなければ 緊張はなく、常に人は 寛(くつろ)いでいる。

そして 寛いでいれば、その眼には ある明晰性が ある。

それは 雲や夢によって曇らされていない。

どんな想いも 頭(マインド)を よぎらない。

人は 見抜くことができる。

そして 真理が見えたら、それが 人を解放する。

真理は 解放する。

 

『 だが、ほんの僅かな区別でもすれば、

   天と地は無限に離れる 』

 

 ほんの僅かの区別、ほんの微かな選択、それで 人は分断されている。

そうなれば もう地獄と天国がある……そして その二つの間で 人は押しつぶされていることになる。

 

『 だから、真実を見たいと願うなら、

   いいとか、駄目だとかの意見を持たぬことだ 』

 

 意見を持たずに 動きなさい。

裸で、衣服を着ずに、真理についての どんな意見も持たずに動きなさい……真理は あらゆる意見を ひどく嫌うからだ。

自分の 哲学、 理論、 教義、 聖典を すべて捨てなさい。

がらくたは すべて捨てるのだ。

黙って 選ばずに行きなさい。

あるものを ただそのままに見ようとする眼を持ち、いかなる意味でも自分の願いの何がしかが満たされるのを見たいなどとは 望まずに。

望みを 持ち運んではいけない。

地獄の小径は、希望で いっぱいだと言う・・・よかれとの 願い、 希望、 夢、 虹、 理想で。

天国の小径は まったく空っぽだ。

 

 重荷を すべて捨てなさい。

高く行きたいと 思うなら思うほど、それだけ 重荷を少なくしていなければならない。

ヒマラヤに行くのなら、完全に 荷を降ろさなければならない。

そして 最後に、グリシャンカールに、エベレストに到達する時には、何もかも捨てなければならない。

まったくの裸で行かなければならないのだ。

高く行けば行くほど、人は それだけ身軽になっていなければならないのだから。

意見とは 肩にかかる重荷だ。

それは 翼ではない、文鎮のようなものだ。

意見なしで、 どんな選り好みもなしでいることだ。

 

第1章   大いなる道 (14)へ 続く・・・

「信心銘」 第1章   大いなる道 (12)

(…意識の明晰さが ある時、全存在は、その実体を顕わす 。 その実体が神、その実体が真理だ…)

 

Pp36ー37

 

第1章   大いなる道 (12)

 

 それは何を 意味するか。

僧璨(そうさん)のような人は 愛さない ということだ。

その愛は まったく異なった質を 持つことになる。

それは、あなたたちの愛と 同じにはならない。

彼も愛しはするが、その愛は 選択にはならない。

彼も愛しはするが、その愛は 投影にはならない。

彼も愛しはするが、その愛は 自分の夢のための愛ではない ということだ。

彼は 実在を 愛する。

その実在への愛が 慈愛だ。

 

 彼は あれこれと 投影しない。

彼は 人の中に 神も見なければ 悪魔も 見ない。

彼は ただその人を見、自ら溢れるほどに持つがゆえに それを分かち合う・・・すると 分かてば分かつほど それは 大きくなる。

彼は 自らの歓喜を 人に分かつことになるのだ。

 

 人を愛すれば、あなたたちは 投影する。

あなたたちが 愛するのは、与えるためではない・・・あなたたちは 奪うために、搾取するために愛する。

人を 愛すれば、あなたたちは 自分に合わせて、自分の考えに合わせて その人を 固定しようとし始める。

あらゆる夫が これをしている、あらゆる妻が これをしている、あらゆる友人が これをしている。

相手を、実在を変えようと し続ける。

が、実在が 変わることは あり得ない・・・あなたたちは 失望するだけだ。

 

 実在は 変わり得ない。

ただ夢が 粉々に 砕かれ、自分が 傷つくことになるだけだ。

 

が、人は 実在に 耳をかさない。

 

あなたの夢を満たすために ここにいる者など 誰もいない。

誰もが、 自分の運命を、自分自身の 真実を実現するために ここにいるのだ。

 

 僧璨(そうさん)のような人も 愛するが、その愛は 搾取ではない。

彼が 愛するのは、あまりにも多くを 持っているから、 溢れているからなのだ。

彼は 誰のまわりにも 夢を紡(つむ)がない。

道で出会う 誰にでも 分かち合う。

その分かち合いは 無条件だ。

相手から 何ひとつ期待してはいない。

愛が 期待したら、あるのは 失望だ。

愛が 期待したら、けっして 充足が来ることはない。

愛が 期待したら、来るのは 惨めさと 狂気だけだ。

 

「違う」と 僧璨は言う。

「愛でも憎しみでもない。 ただ相手の真実を見るがいい」と。

これが 覚者の 愛だ。

相手の 真実を見ること。

相手を あるがままに 見ること、ただ その真の姿を見ることだ。

 

投影するのでもなく、夢を見るのでもなく、イメージを作るのでもなく、そのイメージに 合わせて 相手を固定しようとするのでもない。

 

 

 第1章   大いなる道 (13)へ 続く・・・

「信心銘」 第1章   大いなる道 (11)

Pp35ー36

 

 第1章   大いなる道 (11)

 

 誰も あなたのために 永久に映写幕の役など 演ずることはできない。

それでは 居心地が 悪すぎる。

人が どうやってあなたの夢になど 合わせられよう。

その人には その人の実体があり、その実体が現われずにはいない。

 

 人を 愛していれば、あなたは そこにないものを 投影する。

人を 憎めば、またしても あなたはそこにないものを 投影する。

愛されて、その人は神になる。

憎まれて、その人は 悪魔になる。

そしてその人は 神でもなければ、悪魔でもない。

 

その人は ただ 彼自身、あるいは、彼女自身であるに過ぎない。

 

その 悪魔や神が 投影だ。

 

好きだったら、 平明には 見られない。

嫌いだったら、 平明には 見られない。

 

好きも 嫌いも ない時、人は 目が澄み、明晰性を持っている。

その時 初めて 相手を、 彼あるいは彼女の あるがままの姿を見る。

意識の明晰さが ある時、全存在は、その実体を 顕す。

その実体が 神、 その実体が 真理だ。

 

 

第1章   大いなる道 (12)ヘ 続く・・・

「信心銘」 第1章   大いなる道 (10)

Pp31ー35

 

第1章   大いなる道 (10)

 

…文明は 便秘によって 測ることができる。

より便秘している国が より文明化されている ということだ。

それだけ 論理的だからだ。

なぜ息を吐くのか、吸い込み続ければいい、食物はエネルギーだ、どうして捨てるのか、と。

人は 気づいていないかもしれないが、これこそは、論理的に、つまりアリストテレス的に なりつつある無意識の仕業なのだ。

 

 だが〈生〉とは、外に投げ出すことと、内に招くことの平衡だ。

人は 通路に過ぎない。

分かちなさい、与えるのだ。

そうすれば もっと多くのものが 与えられる。

ケチになって、与えないでいてみなさい、あなたに与えられるものは だんだん減って来る。

それは、あなたが必要としていないからだ。

 覚えておきなさい、そして 自分の〈生〉の過程を 見守るのだ。

 

あなたが 究極の理解を、光明を得たいと 本当に思うなら、もっと多くのものが 自分に与えられるように、与えることを 忘れないことだ。

何であれ、それを 吐き出しなさい。

もっと 息を吐きなさい。

それが 分かち合うことの意味、与えることの 意味だ。

 

 贈り物とは、もっと多くのものが 与えられるように、自分の エネルギーを与えることだ。

だが 頭(マインド)は 言う・・・。

頭には 頭の論理がある。

そして僧璨は その論理を 病いと 呼ぶ。

 

 『大いなる道は難しくない』

 

 あなたが それを難しくしている。

あなたが 難しいのだ。

大いなる道は 易しいものだ。

 

 『選り好みをしなければよいだけだ』

 

 選んではいけない。〈生〉が流れるのを許しなさい。

〈生〉に「この道を行け。 北に向かえ、南に向かえ」などと 言ってはならない。

そんなことは言わないで、ただ〈生〉と ともに流れなさい。

流れと 闘ってはいけない……流れと ひとつになりなさい。

 

 『選り好みをしなければよいだけだ』

 

 大いなる道は 選り好みをしない者には、 易しい。

が、あなたたちは あらゆることに 選り好みをする。

あらゆることに 思考(マインド)を 持ち込む。

「私は好きだ。私は嫌いだ。 私は これがいい、あれは嫌だ」と 言う。

 

 『愛も憎しみもなければ、』

 

 こちらに 何の選り好みもなければ、「いい」だの「いや」だのということが まったくなく、愛も憎しみも両方なければ、何を好むということも、何を嫌うということもなく、ただ あらゆることを 起こるに  委(まか)せるなら………

 

 『すべては明瞭で、隠されたものとてない。

   だが、ほんの僅かな区別でもすれば、

   天と地は無限に離れる』

 

 だが 頭(マインド)は 言うだろう。

「選ばなければ、 動物になってしまう。 選択しなかったら、私と樹と どこが違う」と。

違いはある。

大変な違いが ある。

思考(マインド)が 持ち込む違いではなく、覚醒によって起こる違いだ。

樹は無選択で かつ無意識だ。

あなたは無選択で、しかも 意識的であることになる。

これが 無選択の覚醒が 意味するもの、そして それこそが最大の相違だ。

あなたは 自分が無選択でいることに 醒めていることになる。

 

 そして この覚醒が あまりに豊かな平安を与えるために、あなたは 一人の仏陀に、一人の僧璨に、一人の荘子に なる。

樹木は 荘子には なり得ない。

荘子は 樹に似ているが、それに 何かが加わっている。

彼は 選択に関するかぎり 樹と似ているが、覚醒に関するかぎり、まったく 似ていない。

荘子は 自分が無選択でいることに 完全に醒めているのだ。

 

 『愛も憎しみもなければ、』

 

 愛と憎しみは ともに色眼鏡をかける。

すると、もうはっきりとは 見られない。

誰かを恋したら、人は そこにないものを見始める。

どんな女性も、恋するあなたが思うその女性ほどに 美しくはない。

なぜなら、あなたは 投影しているからだ。

頭(マインド)の中に 夢の少女を持っていて、その夢の少女が 投影される。

その 現実の女の子は、映写幕として 機能しているに 過ぎない。

 

 あらゆる恋が 遅かれ早かれ いつか幻滅に到るのはそのためだ。

その女の子に どうしてスクリーンの役割が 演じ続けられよう。

彼女は 生身の人間だ。

彼女は 主張するだろう。「私は 映写幕じゃありません」と 言うだろう。

どれだけの時間、彼女が あなたの投影に合わせ続けられると言うのか。

遅かれ早かれ、人は、その二つが 合わないのを感ずる。

初めのうちは、彼女も譲った。

初めのうちは、あなたも 譲歩した。

あなたは 彼女にとっては 映写幕だった、彼女は あなたにとっては映写幕だったのだ。

 

 ちょっと小耳にはさんだのだが、ムラ・ナスルディンの妻君が、彼に 言っていた。

「あなたは以前ほど私を 愛してくれていないわね。 以前、私に 言い寄っていた頃みたいには」

ムラ・ナスルディンは 言った。

「あんなことは、 お前、そんなに気にしなくていいよ。 あんなのは、ただの宣伝キャンペーンなんだから。

俺は お前が言ったことを 忘れたから、お前も 俺が言ったことなんか 忘れるんんだな。

そろそろ現実的にやろうじゃないか」。

 

 

第1章   大いなる道 (11)ヘ 続く・・・

「信心銘」 第1章   大いなる道 (09)

 

『 大いなる道は難しくない、

   選り好みをしなければよいだけだ。

   愛も憎しみもなければ、

   すべては明瞭で、隠されたものとてない。

   だが、ほんの僅かな区別でもすれば、

   天と地は無限に離れる。

   だから、真実を見たいと願うなら、

   いいとか、駄目だとかの意見を持たぬことだ。

   好きと嫌いの葛藤、

   これが 心の病いだ。 』

 

Pp25ー31

 

 第1章   大いなる道 (09)

 

 まさに荘子と同じように、

「易しいことは正しい」。

「大いなる道は 難しくない」。

もしそれが難しく見えるようなら、それを難しくしているのは、あなただ。

大いなる道は 易しい。

 

 

 どうしてそれが難しいものであり得よう。

樹でさえ それに従っている。

川も 従い、岩も 従っている。

どうしてそれが 難しいものであり得よう。

鳥さえも その中を飛び、魚も その中を泳いでいる。

どうしてそれが 難しいものであり得よう。

人が それを難しくする。

思考(マインド)が それを難しくする。

そして、どんな易しいものでも 難しくする秘訣は、選ぶこと、 区別することだ。

 

 愛することは 易しい、憎むことは 易しい。

だが、 人は選択する。「私は 愛するだけで、憎まないことにしよう」と 言う。

さあ、 これで すべては難しくなる。

今度は 愛することもできない。

息を吸うことは易しい、息を吐くことは易しい。

が、人は選択する。「息を 吸うだけで、吐かないことにしよう」と言う。

これで、何もかも 難しくなる。

 

 思考(マインド)は、こう言うかもしれない。

「なぜ息を吐くことがあるのか。 息は生命だ。 単純な算術じゃないか。

息を吸い続けるんだ、吐き出すな。 そうすれば、おまえは もっともっといきいきして来るだろう。

もっともっと 命がたまるはずだ。 生命の大倉庫になるはずだ。 息を吸い込むだけにするんだ。 吐き出すな。

だって息を吐き出すことは 死ぬことじゃないか」と。

 

 いいかね、子供が生まれて 最初にしなければならないことは、息を吸うことだ。

そして 人が死ぬ時 最後にしなければならないことは、息を 吐き出すことだ。

〈生〉は 息を吸うことで始まり、死は 息を吐き出すことで始まる。

息を吸う瞬間ごとに 人は 生まれ変わる。

息を吐き出す瞬間ごとに 人は 死ぬ。

息が 生命だからだ。

ヒンドゥー教徒が息を「プラーナ」と呼ぶのは そのためだ。

「プラーナ」とは 生命(いのち)を 意味する。 息は 生命だ。

 

 これは単純な論理、単純な算術だ。

息を どんどん吸い込んで吐き出さなければ、決して死ぬことはない、と証明するのに さしたる手間は かからない。

息を吐き出せば、死ななければならないことになる。

息を吐き出し過ぎれば、すぐに死んでしまうことになる。

算術だ、単純で分かりやすい、分かりやすく見える。

そこで 論理家なら、どうするだろうか。

論理家なら、ただ息は吸い込むだけで、決して 吐き出さない ということになる。

愛は 息を吸い込むこと、憎しみは 息を吐き出すことだ。

 

 では、どうすべきか。

決めなければ〈生〉は 易しい。

何しろ、 息を吸い込むことと 息を吐き出すことが、対立するものではないことを、それは ひとつの過程の 二つの部分であり、しかも それは有機的な部分で、分割はできないことが 分かっているのだから。

だから、もし息を 吐き出さなったら どうなるか・・・。

論理は 間違っているのだ。

それでは 生きてはいられない……すぐに死ぬことになるだけだ。

 

 やってみなさい。

ただ吸い込むだけで 息を 吐き出さないでみなさい。

ものすごく緊張して来るのが、 すぐにも分かる。

全身が 息を吐き出そうとするはずだ、そのままでは 死んでしまうのだから。

選べば、難しくなる。

選ばなければ、あらゆることは易しい。

易しいのが 正しいのだ。

 

人間が 窮境に陥っているとすれば、それは あまりにもたくさんの教師がいて、人の 頭(マインド)を 毒してきたためだ。

連中は、「これを選びなさい。 こうしてはいけない、ああしなさい」と 教えて来ている。

その「しなさい」「してはいけない」が あなたたちを 殺してしまった。

しかも彼らは 論理的に見える。

議論すれば、彼らが勝つだろう、論理は彼らに 味方するだろう……分かり切ったことじゃないか、それが死なら どうして息を吐き出すことがあるのか、 と。

 そして、これが実際に起こったのだ。

呼吸に関して だけでなく、しかも、呼吸に関してまで起こった。

 

 人は呼吸の数で 年齢(とし)を取る、と唱える ヨガの一派がある。

命は 年齢によって ではなく、呼吸の数によって勘定される と言う。

だから ゆっくり息をしなさい、一分間に十二回 息をすれば 早く死ぬから、六回か三回に しなさい、そうすれば それだけ永く生きられる、 と 言うのだ。

 

 誰一人 成功したためしはない。

だが人は 試み続ける、呼吸を遅くしろ、 と。

なぜか。

ゆっくり息をすれば、吐き出す息は、それだけ 少なくなる。

だから、死の起こる度合いも それだけ少なくなる、つまり、それだけ 長生きできる、と 言うのだ。

起こることといえば、生きる興味が失せるくらいのものだ。

寿命が延びるのではないが、より長くは 見えるかもしれない。

 

 結婚したら 独り者よりは長生きする と 言われている。

それで誰かが ナスルディンに訊いた。

「これは 本当かね、ナスルディン」

ナスルディンは 言った。

「そう見えるのさ。 結婚した男が 長生きするわけじゃないけど、いかにも長く生きて来たような気がするんだ」

 

 つまり、面倒が多ければ 時間は 長く見え、何の面倒もなければ、時間は 短く見える というわけだ。

 

ゆっくり、しかも なるたけ少なく息をし続けようとする、こういう いわゆるヨガ行者たちは、ただ 人生の速度を緩めているに過ぎない。

より少なく 生きている、それだけだ。

より長生きするのではなく、より少なく生きているのだ。

彼らは 十分に生きてはいない。

その蠟燭は完全に燃えてはいない。

心からの喜びが、熱中が、踊りが 失われている……彼らは 自分を引きずっているのだ。

それだけだ。

 

 これがセックスについても 起こった。

と言うのは、人々は セックスと一緒に 死が入って来ると思ったからだ。

たしかに彼らは正しい。

性エネルギーが〈生〉に 誕生を与えるのだから、性エネルギーが 出て行けば行くほど、それだけ多く 生命も外に出て行ってしまうことになる。

論理的だ、まったく アリストテレス的だ。

だが 馬鹿げている。

論理家以上の愚か者は あり得ない。

〈生〉のエネルギーが セックスから来ていると言うのは論理的だ。

子供は セックスのゆえに 生まれる、セックスは 命の源泉だ、だから それを内に保ち、それが 外に出て行くのを 許すな、さもないと 死んでしまうぞ、というわけだ。

全世界がセックスを 恐れるようになった。

 

 しかし、これも同じことだ。

まさに 息を吐き出さないようなものだ。

そうなると全存在が それを外に投げ出そうとする。

すると いわゆるブラーフマチャーリンたち、禁欲家たちは、全身が それを 投げ出そうとしているのに、性エネルギーを、精子を出すまいとすることになる。

かくて、彼らの〈生〉は すべて 性的になる。

その思考(マインド)は 性的になり、セックスの 夢を見、セックスのことを 考える。

セックスが 彼らの強迫観念になる。

それは 彼らが、たしかに論理的ではあるが、〈生〉に対して 真実ではないことを しようとしているからだ。

しかも 彼らは 長くは生きない、早死する。

これは 最近の発見、最近の調査なのだが、人は 愛情生活を なるべく長く続けた方が 長生きすると 言う。

 

 八十歳に なっても愛を交わすことが出来れば その方が長生きする。

なぜだろう。

なぜなら、息を 吐き出せば吐き出すほど、それだけ 多く息を 吸い込むことになるからだ。

だから、より多くの生命を 求めるなら、内側に 真空ができるほどに、もっと たくさんの息を 吐き出すことだ。

そうすれば それだけ多くの息が 入って来る。

息を吸うことなど 考えないことだ。

できるだけ 息を吐くだけでいい。

そうすれば、全身が 息を吸い込もうとする。

もっと 愛しなさい……それが息を吐くことだ……そうすれば 肉体が全宇宙から 新しいエネルギーを 集めることになる。

真空を作れば エネルギーは やって来る。

 

〈生〉のあらゆる過程が まさにこの通りだ。

人は 食べる……だが、そこで 出し惜しんで、人は便秘する。

論理は正しい。

息を吐くなかれだ。

便秘とは、息を吸うのに 賛成して、息を吐くのに 反対することだ。

ほとんど すべての文明人が、便秘している。

文明は 便秘によって 測ることができる。

より便秘している国が より文明化されている ということだ。

それだけ 論理的だからだ。

 

 

 第1章   大いなる道 (10)へ 続く・・・

「信心銘」第1章   大いなる道 (08)

Pp23ー26

 

 第1章   大いなる道 (08)

 

 西洋の思考(マインド)は直線的、東洋の思考(マインド)は 円環的だ。

だから東洋では、愛する者は待つことができる。

彼は、自分を離れて行った女(ひと)が 今に帰って来ることを 知っている。

彼女は もうその途上にある。

彼女は 今、 後悔しているに違いない、既に 悔いているに違いない。

帰って来るところに違いない。

遅かれ早かれ、扉を叩くだろう。

待てばいいのだ、いつもそこには対極があるのだから。

 

そして、腹を立てた後で 女が帰って来た時には、愛は 必ず、また新鮮になる。

今度は 繰り返しではない。

怒りの時が 過去を破壊した。

今や彼女は 再び少女に、処女になっている。

もう一度 彼女は 恋する・・・。

何もかもが新鮮になる。

これを理解したら、人は もう何事にも反対しない。

怒りさえも美しいことを、今ここで争うのも 次の瞬間には、〈生〉に ひとつの調子を与えることを知っている。

かくて、あらゆるものが豊かになる。

そうなれば 人は受け容れる。

そうなれば、深い受容の中で、人は忍耐できる。

そうなれば、焦ることなど何もない、急ぐことなど何もない。

そうなったら、人は 待つことも祈ることも、期待することも、夢見ることもできる。

 

 もし、そうでなくて、〈生〉が アリストテレスや……西洋流の思考は アリストテレスからバートランド・ラッセルへと 動いて来たのだが……バートランド・ラッセルが 考えているように、直線的なものなら、人生は とても我慢できないものになる。

 

誰も帰って来ないのだ。

そうなれば、人は 常におののき、恐れ、自分を抑圧するようになる。

そうなったら、たとえ 一人の女性と 十年連れ添っても、あるいは 十回の生涯をともにしても、それは他人と一緒にいるのと同じだ。

自分も 自分を抑さえ、相手も 自分を抑さえ、そこに 出会いはない。

 

〈生〉は論理ではない。

論理は〈生〉の 一部でしかない……無論、 非常に輪郭のはっきりした、分類され、整備され、分割された 部分ではある……だが〈生〉とは ごたごたしたものなのだ。

だが、どうしようがあるかね。

それは、 そうなのだ。

〈生〉とは そんなに整備されたものでも、輪郭のはっきりした、分類されたものでもない。

それは 混沌だ。

論理は 死んだもの、そして〈生〉は 生きものだ。

だから 問題は、首尾一貫を選ぶか、〈生〉を選ぶか ということだ。

 

 あまり 一貫性を求めたら、人は だんだん死んで行くことになる。

なぜなら 一貫性とは、対局を まったく落とさなくては 可能でないからだ。

そうなったら、人は愛し、そしてただ愛するだけだ。

ただ愛するばかりで、決して 怒りもしなければ、憎みも、争いも しない。

従ったら ただ従うばかりで、決して 逆らうこともなければ、反抗することもなく、馬鹿なことを 言うこともない。

だが、 それでは すべてが 色褪(あ)せてしまう。

それでは、その関係は 毒になる。

ついには 人を殺してしまう。

 

 この 僧璨は 論理派ではない、生命派だ。

さあ、 彼の言葉の表わすものを 理解しようとしてみなさい。

彼は 言う。

 

『大いなる道は難しくない、

   選り好みをしなければよいだけだ。

   愛も憎しみもなければ、

   すべては明瞭で、隠されたものとてない。

   だが、ほんの僅かな区別でもすれば、

   天と地は無限に離れる。

   だから、真実を見たいと願うなら、

   いいとか、駄目だとかの意見を持たぬことだ。

   好きと嫌いの葛藤、

   これが 心の病いだ。 』

 

 

 まさに 荘子と同じように、

「易しいことは正しい」。

「大いなる道は難しくない」。

もし それが難しく見えるようなら、それを難しくしているのは、あなただ。

大いなる道は 易しい。

 

 

 第1章   大いなる道 (09)へ 続く・・・

「信心銘」第1章   大いなる道 (07)

Pp21ー23

 

第1章   大いなる道 (07)

(……あなたたちは 中国の陰陽図を見たことがあるに違いない。

あれが〈生〉の ありようだ・・・)

 

・・・対極が 出会っている。

あの陰陽図は、半分が白で 半分が黒だ。

その 白の中に 黒い点があり、黒の中に 白い点がある。

白は 黒の中に 突き進み、黒は白に向かっている・・・ひとつの 円環だ。

 

女は男に向かって 動き、男は女に向かって動いている。

これが 生だ・・・細かく観察すれば、それが 自分の中にも あるのがあなたにも 分かるだろう。

 

男は 二十四時間、男ではいない。

そうではあり得ない・・・男が女に なることもある。

女は 二十四時間、女ではいない・・・時には、女が男に なることもある。

 

 両者は 対極に向かって動く。

女が 怒った時、彼女は もう女ではない。

どんな男よりも 攻撃的に、 どんな男よりも 危険になる。

女性の中の男性は、より純粋で 一度も使われたことがない からだ。

だから、いったん 女が怒れば、その怒りは どんな男も 敵 (かな)わないほどの 鋭さを持つ。

あたかも 何年も使われなかった 土壌のようなものだ。

種を蒔 (ま)けば 豊作だ。

 

 女は 時には男になるが、女が男になったら どんな男も 敵わない。

そうなったら 女は実に物騒だ。

そういう時には、男は 言うことを聴いておいた方がいい。

そして それは男たちが みんなやっていることだ。

男は おとなしく 言うことを聴く、降参する。

何しろ、 男が すぐに女にならなければ、面倒なことになるからだ。

ひとつの玉座に 刀が二本では 面倒なことになる。

女が男になったら、つまり 女が役割を変えたら、男も ただちに 女に なる。

それでまた なにもかも治まる・・・再び 円になる。

 

 また、男が 言うことを聴いて 降参したら、その降参には常に、 どんな女も敵わないほどの 純粋さが ある。

普通 男は、そのゲームで 決してそんな態度を とらないからだ。

いつもなら 男は 立ち向かい、戦う。

普通なら 男は 意志を 通す、降参しない。

だが、 いったん降参したら、男は どんな女も敵わないほど 純になる。

恋を している男を 見なさい、まるで 子供みたいになる。

 

 だが それが〈生〉の動き方なのだ。

これを 理解したら、もう 人は決して 心配しない。

そうなれば 愛する男が 離れて行っても、彼が帰って来ることを 知っている。

愛する者が 怒っても、その愛が 帰って来ることを 知っている。

そうなれば 人は忍耐心を持つ

アリストテレスと 一緒では、忍耐など 持てない。

なにしろ、愛する者が 離れたら、一直線に 立ち去ってしまう、帰って来ることは ない、と言うのだから。

これは 円ではない。

だが 東洋の我々は 円を信じている。

西洋では 直線を信じている。

 

 西洋の思考(マインド)は直線的、東洋の思考(マインド)は 円環的だ。

 

 

第1章   大いなる道 (08)へ 続く・・・