saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」 第1章   大いなる道 (13)

Pp37ー40

 

 第1章   大いなる道 (13)

 

『愛も憎しみもなければ、

   すべては明瞭で、隠されたものとてない』

 

 心(マインド)は 愛したり、憎んだりせずにはいられない。

心(マインド)は たえずこの二つの間で 闘っていなければならない。

もし 好きでも嫌いでもなかったら、人は 思い(マインド)を 超える。

そうなったら どこに思い(マインド)があるか。

自分の中で 思考(マインド)は 消え去る。

選択があれば、たとえ「私は静かでいたい」と 言っても、けっして静かでは いられない。

そこに 好みがあるからだ。

これこそが 問題なのだ。

 

 人々は、私の所にやって来て言う。

「静かになりたいのです。 もうこれ以上、こんな緊張をしていたくありません」。

私は、この人たちを 気の毒に思う、気の毒なのは、彼らの 言っていることが 馬鹿げているからだ。

これ以上緊張したくない と 思えば、新しい緊張を 生み出すことになるのだ。

なぜなら、その したくない という思いが 新しい緊張を 作ることになるからだ。

つまり、静けさを 望み過ぎたら、それをあまり求めたら、その沈黙そのものが 緊張になり、今度は そのために もっとかき乱されることになる。

 

 静けさ とは 何だろう。

それは 深い 理解だ。

自分が 選り好みをしたら 緊張する、という現象に対する理解なのだ。

たとえ、沈黙を選んでも、緊張することになる。

 

 理解しなさい。

それを 感じなさい。

選り好みをすれば 必ず自分が 緊張する。

選り好みをしなければ 緊張はなく、常に人は 寛(くつろ)いでいる。

そして 寛いでいれば、その眼には ある明晰性が ある。

それは 雲や夢によって曇らされていない。

どんな想いも 頭(マインド)を よぎらない。

人は 見抜くことができる。

そして 真理が見えたら、それが 人を解放する。

真理は 解放する。

 

『 だが、ほんの僅かな区別でもすれば、

   天と地は無限に離れる 』

 

 ほんの僅かの区別、ほんの微かな選択、それで 人は分断されている。

そうなれば もう地獄と天国がある……そして その二つの間で 人は押しつぶされていることになる。

 

『 だから、真実を見たいと願うなら、

   いいとか、駄目だとかの意見を持たぬことだ 』

 

 意見を持たずに 動きなさい。

裸で、衣服を着ずに、真理についての どんな意見も持たずに動きなさい……真理は あらゆる意見を ひどく嫌うからだ。

自分の 哲学、 理論、 教義、 聖典を すべて捨てなさい。

がらくたは すべて捨てるのだ。

黙って 選ばずに行きなさい。

あるものを ただそのままに見ようとする眼を持ち、いかなる意味でも自分の願いの何がしかが満たされるのを見たいなどとは 望まずに。

望みを 持ち運んではいけない。

地獄の小径は、希望で いっぱいだと言う・・・よかれとの 願い、 希望、 夢、 虹、 理想で。

天国の小径は まったく空っぽだ。

 

 重荷を すべて捨てなさい。

高く行きたいと 思うなら思うほど、それだけ 重荷を少なくしていなければならない。

ヒマラヤに行くのなら、完全に 荷を降ろさなければならない。

そして 最後に、グリシャンカールに、エベレストに到達する時には、何もかも捨てなければならない。

まったくの裸で行かなければならないのだ。

高く行けば行くほど、人は それだけ身軽になっていなければならないのだから。

意見とは 肩にかかる重荷だ。

それは 翼ではない、文鎮のようなものだ。

意見なしで、 どんな選り好みもなしでいることだ。

 

第1章   大いなる道 (14)へ 続く・・・