saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」第二章  道は完全だ (07)

Pp59ー61

 

 第二章  道は完全だ (07)

 

 助けになるように、二つのことを言っておこう。

ひとつは、眠りのことだ。

どのように眠りが起こるのか、自分がどのように眠りにおちて行くのかを見つけ出してごらん。

あなたには ある儀式があるかもしれない。

しかし、その儀式が眠りを 作り出しているわけではない。

それは 助けるだけだ。

誰でも ある種の儀式を持っている。

小さな子供たちは 自分の儀式、ある 決まった姿勢を持っている。

どんな子供にも 自分の姿勢がある。

ある子は 親指を口にくわえるかもしれない。

それが 眠りを与えるわけではないが、その子にとっては それが役に立つ。

その子は、自分の儀式を発見したのだ。

が、その子の 真似をしても、誰もが 眠りに入れるわけではない。

 

 すべての 瞑想技法についても、同じことが言える。

 

誰もが 自分の儀式を見つけている。

それは 役に立つ。

それが ある雰囲気を 醸(かも)し出すからだ。

灯りを消し、部屋の中で ある決まった 香をたく。

決まった衣を 身につけ、決まった 高さ、決まった 柔らかさの中に 身をおく。

いつもの 毛布をかけ、ある特定の姿勢をとる。

このすべてが、眠りを助ける。

だが、これが眠りを起こすわけではない。

他の誰かが 真似をしたら、それが 眠りの妨げになるかもしれない。

人は 自分自身の儀式を見つけなければならない。

 

 儀式は、 ただ 楽に寛(くつろ)いで、待てるようにするために あるに過ぎない。

そして 寛いで待っている時、そのことが 起こる。

まさに 眠りのように、 神は あなたの所にやって来る。

まさに 愛が起こるように、神はあなたの所にやって来る。

人は それを、 意志することはできない。

それを強いることはできない。

 

 あまりにも 物事のやり方を学び過ぎたために、あなたたちの人生は ひとつの問題になってしまった。

あなたたちは 機械的な物事については、極めて有能になったが、それは  や   る   ことができるからだ。

しかし、人間的な事柄については、あなたたちは まったく無能になってしまった。

なぜなら、それは学習することはできないし、また 操作的に為し得ることではないからだ。

それについての 能率専門家になることはできない。

 

 機械的にできることなら、そのための訓練所が必ずあるものだ。

だが 意識を訓練することは できない。

そこで人は、光明を得られるような技法や呪文を 見つけ出そうと、あれこれ導師達の あとを追いかける。

だが、光明を得させられる呪文などない。

 

 これこそが その 呪文(マントラ)だ。

僧璨(そうさん)は、人は もっと理解するようにならなければならない、 と 言う。

すなわち、もっと 意志を 少なく、より手放しに、より 努力を少なく、より無努力になり、意識の行為をより少なく、 もっと無意識の海を泳ぐように、 と。

 

 では、 経文の理解に入ろう。

『物事の深い意味が分からぬうちは、

   心の平安はいたずらに乱される。』

 

「物事の 深い意味が分からぬうちは、心の平安は いたずらに乱される」。

理解すれば、そこに平安が現われる。

理解しなければ、そこには 騒動と、 緊張と、 苦悩が現われる。

 

誰か 苦しんでいる時には、それは 必ずその人が 事態を、物事のより深い意味を 理解していない ということだ。

だが 人は、自分の苦しみを 他人(ひと)のせいにして 他人を責め続ける。

 

この世には、他人のために苦しんでいる者など 一人もいない。

あなたが苦しんでいるのは、あなたの無理解の、 あるいは誤解のせいだ。

 

 

第二章  道は完全だ (08)ヘ 続く・・・