saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」第1章 大いなる道 (06)

Pp19ー21

(……十年間 一度も、口争いすら したことがなかったのなら、愛など まったく無かったということだ。 それは 関係というものではなかった ということだ )。

 

第1章   大いなる道 (06)

 

 

二人は どんな怒りも、口争いも、どんなわずかなことでも、すべてを壊しかねない と 恐れていた。

一度も、口喧嘩すらしたことがないほど 恐れていたのだ。

愛が その口争いよりも深いものに なり得ることを、争いは 一時的なもので、その争いの あとで、二人が互いの腕の中に より深く委ね合うことになるとは、一度も 信じなかった。

いや、一度も そんなふうには 信頼しなかった。

だからこそ、二人は 争いを避け通した。

その夫が 去ってしまったのは、驚くに当たらない。

私は

「彼が 十年も あなたと連れ添ったことの方に 驚くよ。

何の ためかね」と 言った。

 

 ある男が 私の所に来て こう言った。

「うちの息子が 何だか おかしくなってしまったのです。

これまで 二十年間…いつも言うことを よく聴く子でした。 どこに行ったって あんないい子が いるもんじゃありません。

言うことを聴かなかったことは ありませんし、一度も 私に楯突いたことは なかったのです。

それが 今になって急に 彼は ヒッピーになってしまったのです。

今度は 突然、 言うことなんか聴きません。 まるで 自分の父親じゃないみたいに 私を見るのです。

まるで知らない人間を見るみたいな目つきで 私を見るんです。

それが これまでの 二十年間は、とても聴き分けのいい子  だったんですよ。

いったい私の息子に 何が起こったのでしょう 」。

 

 何が起こった わけでもない。

それこそ 予期すべきことだった。

なぜといって、息子が 本当に 父親を愛しているなら、言うことを聴かないことだってあるはずだからだ。

ほかの 誰に 楯突けというのかね。

もし息子が 本当に父親を愛し、そして信頼していれば、時には 手に負えないことだって ある。

 

 その関係は とても深いもので、反抗ぐらいで壊れるものではないことを 息子は 知っているからだ。

逆に、それは かえって豊かになるだろう。

対極が 豊かにするからだ。

 

 本当は、対極は 対立しているのではない。

それは ひとつの リズム、同じもののリズムに過ぎない。

人は 従い、そして 反抗する。

それは リズムだ。

そうでなくて、ただただ 従い続けるばかりだとしたら、何もかもが単調になって 死んでしまう。

単調さ が 死の本質だ。

そこには 対立するものがないからだ。

〈生〉は 生きている。

そこには 対極がある。

そこには リズムがある。

人は動き、そして 帰って来る。

立ち去り、到着する。

逆らい、また 従いもする。

愛し、そして憎む。

これが〈生〉だ。

 

論理ではない。

論理なら言うだろう。

「愛していれば、憎むことはできないはずだ、愛しているなら、どうして腹を立てることなどできよう」と。

もし、 そんなふうに 愛すれば、単調な、同じピッチの愛になってしまうだろうが、それでは緊張してしまう。

寛(くつろ)ぐことなど 不可能だ。

 

 論理は 直線的な現象を 信じている。

それは 一直線に 進む。

〈生〉は 円環を信じている。

同じ線が 上に行き、下に行って、円を描く。

 

 あなたたちは 中国の陰陽図を見たことがあるに違いない。

あれが〈生〉の ありようだ・・・

 

 

第1章   大いなる道 (07)へ 続く・・・