saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」 第1章   大いなる道 (02)

( (01)より……あなたの 一言が、その内心を顕す。

 たったの 一言で その全存在が暴露される。

言葉さえも 必要ではない。 ちょっとした動き、それだけで おしゃべりの 心(マインド)が、そこにいるのが分かってしまう )

Pp8ー12

 第1章   大いなる道 (02)

 

 僧璨が 口を開く時、彼は まったく異なる地平で語っている。

彼は 話すことに興味はない。

人に 影響を及ぼすことに 関心はない。

彼は、何かの理論とか哲学、あるいは「主義」を 納得させようとしているのではない。

そうではない。 僧璨が 話す時には、その沈黙が 花開いているのだ。

口を開く時、彼は ただ自分が知るに到ったこと、人とともに 分かち合いたいことを語っている。

説得しようとしているのではない。

いいかね、 ただ あなたたちと 分かち合うためなのだ。

 

そして もし、その一語でも理解することができたら、あなたは、途方もない沈黙が  自分の中で解き放たれているのを 感ずるだろう。

ただ ここで耳を傾けていればーーー、僧璨と その言葉について語られたことになる。

注意深く 聴いていれば、突然 自分の中に 沈黙が解き放たれるのを あなたは感ずるだろう。

 

 これらの言葉は、原子の力を 秘めている。

エネルギーに 満ち溢れている。

光明を得た人が 何かを語れば、その言葉は 必ず種になる。

そして数百万年の永きに亘って その言葉は種としてとどまり、ハートを探し求める。

 

 もしあなたに 準備があり、土壌となる用意ができているなら、この言葉、 この途方もない力を秘めた 僧璨の言葉は、まだ 生きている。 もし あなたが許すなら、種である その言葉は あなたのハートに入りこみ、それを通して あなたは まったく別な存在になるだろう。

 

 頭 (マインド)で その言葉を聞いてはならない。

その言葉の意味は、観念 (マインド)の意味ではないからだ。

それを 理解するためには、思考 (マインド)は まったく無力だ。

それは 思考 (マインド)から来てはいない、思考(マインド)によっては 理解され得ない。

その言葉は 無思考(ノーマインド)から やって来ている。

それは、無思考(ノーマインド)の状態によってしか 理解されることはない。

 

 だから、ここで 聴いている間も、決して解釈しようとしてはいけない。

言葉を 聴くのではなく、その 行間に 聴き入りなさい。

何を言っているか ではなく 何を 言おうとしているか、その意味に 耳を傾けるのだ。

その 意(こころ)を、あたかも 香りのように、自分のまわりに 漂わせなさい。

それは 静かに あなたの中に 入っていき、あなたは 孕(はら)むことになる。

だが、 解釈してはいけない。

僧璨の 言う意味は ああだとか こうだとか言ってはいけない

その解釈は あなたのものになるからだ。

 

 ある朝、ムラ・ナスルディンが 帰宅の途中だった。

朝まだ 非常に早い時間で、彼は泥酔していた。

共同墓地を 通りかかりながら、 彼は 看板を眺めやった。

そこには、大文字で「管理人に御用の方は、鈴を鳴らしてください『リング・フォー・ザ・ケアティカー』」と 書いてあった。

ナスルディンは その通りにした。

勿論 朝 こんなに早いのだから 管理人は眠りを妨げられ、腹を立てて よろめきながら出て来た。

そして すっかり泥酔しているナスルディンを見て、ますます腹を立てた。

管理人は 尋ねた。

「どうしたんです。どうして鈴を鳴らしたんですか。どうして私を 起こしたんです。

いったい、何事ですか。 いったい、 何が望みなんです」。

 

ナスルディンは 一分ほど 黙って相手を見ていたが、やおら看板の方に目をやると、こう言った。

「俺は、あんたがなんで あのやくざな鈴を 自分で鳴らせないのか、それが 知りたいと思って ね」。

そこには こう書いてあった

「管理人に代わって 鈴を鳴らしてください『リング・フォー・ザ・ケアティカー』」

さて、これを どう解釈するか、それは あなた次第だ。

 

 解釈してはいけない、聴きなさい。

解釈すれば、耳を傾けることは できなくなる。

意識は、同時に 対立する二つのことは 出来ないからだ。

考え始めたら 聴くことは 止まる。

音楽を聴くように ただ聴きなさい。

解釈しないがゆえの、まったく質の異なる傾聴が 起こる。

音に 意味はない。

 

 これも音楽だ。 この僧璨は 音楽家だ、哲学者ではない。

この僧璨は 言葉を語っているのではない。

彼が 語っているのは それ以上のことーーー言葉以上のものだ。

それは 何かを意味してはいるが、言葉に意味はない。

それは あたかも、音楽の音のようなものだ。

 

 滝の そばに行って 坐ったとしよう。

あなたは 滝の音に聴き入る。

だが、滝が 何を言っているか 解釈しようとするだろうか。

滝は 何も 言っていない。

しかし それでも滝は 語っている。

それは 大いに 語っている、語り得る以上の ことを。

滝の傍で あなたはどうするだろう。

耳を 傾け、 沈黙し、 静かになり、そして 滝の音と ひとつになる。

 

あなたは 滝が 深く、より深く 自分の中に入って来るのを許す。

その時、内側で あらゆるものが静かになり 沈黙する。

あなたは 寺院になる。

滝を 通して 未知なるものが入って来る。

あなたは どうするだろう、鳥の声を聴く時、あるいは、 風が 樹々の間を 通り過ぎるのを聴く時、あるいは、枯葉が 風に舞うのを見る時、あなたは どうするだろう。

あなたは ただ 耳を傾ける。

 

この僧璨は 哲学者ではない、理論家ではない、聖職者ではない。

彼には どんな観念も あなた方に売りつけるつもりはない。

彼は 観念などには興味がない。

人を 説得しようとしてるのではない。

彼は ただ 花開いているに過ぎない。

 

僧璨は ひとつの滝だ。

あるいは 樹々の間を 吹きぬける 一陣の風だ。

あるいは、 小鳥たちの さえずりに過ぎない。

意味は ない。

しかし、多くのものを意味している。

あなたが その「意味」を吸収しなければならない。

その時 初めてあなたは 理解することができる。

 

 

  第1章   大いなる道 (03) へ 続く・・・