saleem’s blog

「Let it be so〜」

「信心銘」NEITHER THIS NOR THAT by RAJNEESH

禅の三祖、 導師 僧璨。

   目 次

第1章   大いなる道

第2章   道は完全だ

第3章   真理は捜せない

第4章   根に帰る

第5章   空の世界

第6章   目的なしに生きる

第7章   一切の夢がやむとき

第8章   信を生きる

第9章   これでもない、それでもない

第10章   昨日もなく、明日もなく、今日もない

Pp1ーPp470

著者   ラジニーシ

訳者   スワミ・パリトーショ

発行   禅文化研究所

 

 

第1章   大いなる道 (01)

 

 僧璨禅師は 言った。

『 大いなる道は難しくない、

   選り好みをしなければよいだけだ。

   愛も憎しみもなければ、

   すべては明瞭で、隠されたものとてない。

   だが、ほんの僅かな区別でもすれば、

   天と地は無限に離れる。

   だから、真理を見たいと願うなら、

   いいとか、駄目だとかの意見をもたぬことだ。

   好きと嫌いの葛藤、

   これが心の病いだ。 』

 

 我々は今、禅匠の 美しい 無心の世界に入って行こうとしている。

 僧璨は 禅の三祖だ。

その人については、決して 多くのことは知れていない。

それはそうあるべきことだ。

歴史とは、暴力だけを記録するのだから。

歴史は 沈黙を記録しない。

それを記録することはできない。

 

 すべての記録は 騒動についてのものだ。

いつであれ、誰かが本当に 静かになれば、その人は すべての記録から姿を消す。

彼は もはや、我々の狂気の 一部ではない。

だから、それは まさにかくあるべきことなのだ。

 

 僧璨は、その生涯を通じて 放浪の僧のままだった。

決して どこにも とどまらなかった。

常に過ぎ去り、進み、動いていた。

彼は ひとつの河だった。

淀んだ沼ではなかった。

絶えざる流れだった。

これが仏陀の言う 漂泊者(雲水)の意味だ。

漂泊者は、外側の世間の中ばかりでなく、内なる世界でも、宿無しで いるべきだ。

なぜなら、人は 家を造れば、必ず それに執着するようになるからだ。

漂泊者は 根なし草のままでいるべきだ。

この全宇宙の他には どんな家もない。

 

 僧璨は、光明を得た人だと、世に 認められるようになってからも、それまでの 乞食の行を続けた。

彼については、何ひとつ特別なことがない。

彼は 普通の人、〈道(タオ)〉の 人だった。

 

 ここで私は ひとつのことを言っておきたい。

それは、禅とは ひとつの交配だ ということだ。

異種の交配によって、より美しい花が咲き出すことがあるように、異なる血の交配から、より美しい子供が 生まれるように、禅についても まさに同じことがおこった。

 

 禅は、仏陀の思想と 老子の思想の交配だ。

これは 大いなる出会い、かつて起こったことの中で、最も偉大な出会いだった。

だからこそ 禅は、仏陀自身の思想よりも、老子自身の思想よりも 美しいのだ。

 

 これは 最も高い頂点の まれなる開花、それら二つの頂点の出会いだ。

禅は、仏教徒でもなければ、道教徒でもない。

しかし その両方を 内に持っている。

 

 インドは、宗教については 幾分深刻過ぎる。

長い過去、インド人の 心の上にのしかかった 長い伝統の重み、ここでは 宗教は深刻になってしまった。

 

 老子は、物笑いの種だった。ーーー老子は昔から 愚人として知られている。

彼には 深刻さなど まったくない。

老子以上に深刻でない男など 見つけられない。

そして、仏陀の思想と、老子の思想が出会った。

インドと中国が 出会い、禅が 生まれた。

 

 この僧璨は、禅の始流の まさに間近かに いあわせた。

禅は 今、 子宮を出て来るところだった。

彼は その礎石を担っている。

伝記など まったく無用だ。

なぜなら、いつであれ 人が光明を得た時には、もう その人は伝記を待たなくなるからだ。

彼は もはや形ではない。

いつ生まれ、いつ死んだ というようなことは 無用な事実だ。

 

 東洋の我々が、伝記とか、歴史的な事実について、まったく心を悩まして来なかったのは そのためだ。

そういう強迫観念は、これまで東洋には なかった。

今や その強迫観念が 西洋からやって来て、人々は 無用な些事に より多くの関心を持つようになった。

僧璨が いつ生まれたか、この年か、あるいは別の年か。

そんなことで 何が変わるだろう。

いつ死んだか、どうして それが 重要だろう。

僧璨が 重要なのだ。

彼が いつこの世で、 肉体に 生を得たか、いつ立ち去ったかではない。

到着と出立など 無用なことだ。

唯一意味があるのは、その存在だ。

そして これが僧璨が遺した 唯一の言葉だ。

 

 いいかね、これは言葉ではない。

なぜならそれは、言葉を超えて行った心 (マインド)から 出て来ているからだ。

これは 思索ではない、真摯な経験だ。

どんなことにせよ 僧璨が言えば、彼は それを知っているのだ。

僧璨は 知識の人ではない、賢者だ。

彼は 神秘を見通した。

だから、彼が もたらすものが何であるにせよ、それは極めて深い意味を担っている。

それは あなたを 完全に、全面的に変容し得る。

もしあなたが 彼の言葉に 耳を傾けたら、聴く そのことが 変容になり得る。

僧璨が言っていることは どんなことでも、至純の黄金だからだ。

 

 しかし、それは難しくもある。

あなたたちは 思考(マインド)であり、彼は 無思考(ノーマインド)だ。

たとえ言葉を使っていても、彼は 沈黙で何かを 語っている。

一方 あなたたちの方は、たとえ沈黙していても、内側では おしゃべりを続けているからだ。

 

 ムラ・ナスルディンが、起訴されたことがある。

法廷では大した証拠は あがらなかった。

彼の疑いは 重婚罪だった。

何人もの妻を 持っているという疑いだ。

誰もが そのことは知っていた。

しかし、誰も それを証明できなかった。

 

弁護士は ナスルディンに こう言った。

「君は黙っているんだよ。 それだけでいい。

一言でも 言ったら、君は つかまるよ。 だから、ただ ただ沈黙を守ること。

あとのことは 私にまかせなさい」。

 

ムラ・ナスルディンは 沈黙を守った。

心の中は、混乱に沸き立ち、何度も 口を開きそうになったが、何とか自分を制することができた。

外見には、あたかも 仏陀のようだったが、内面は狂人だった。

法廷は 何ひとつ、有罪の証拠をあげられなかった。

治安判事は、彼が 町に何人もの妻を 持っていることを知っていたが、証拠がなくては どうすることも出来なかった。

治安判事は 彼を 釈放せざるを得なかった。

判事は 言った。

「 ムラ・ナスルディン。

あなたは無罪放免です。

もう家に 帰ってもよろしい」と。

ムラ・ナスルディンは、とまどったように見上げ、そして 言った。

「あの、 判事様 どっちの家で」

彼には 帰る家が たくさんあったのだ、何しろ 町に 何人も妻が いたのだから。

 

 あなたの 一言が、その内心を顕す。

 たったの 一言で その全存在が暴露される。

言葉さえも 必要ではない。 ちょっとした動き、それだけで おしゃべりの 心(マインド)が、そこにいるのが分かってしまう。

Pp 1ー8

 

 

 第1章   大いなる道 (02) へ 続く・・・